Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

因習となる規範

2004-12-01 | 文化一般


BLOGという新しいシステムをコムニケーション媒体として使っている。新しいものは何時でも戸惑いと疑心をもって受け止められる。コミュニケーションとなると尚更である。社会の最大公約数的な考え方がその活用に大きく反映する。

昨日50年前にバーデン・バーデンで逝去した指揮者フルトヴェングラーの記念の会が当地で開かれた。20世紀初頭にキャリアを積み大管弦楽団文化の円熟期を導いた。既に多くの重要な伝統ある組織に君臨していた大指揮者は、ナチスに第三帝国の音楽的象徴として作曲家指揮者のR.シュトラウスとともに奉り立てられる。しかし其の存在自体が第三帝国を支えた彼らは、若い世代の才能が第三帝国でキャリアを積みナチスに協力しそれを利用したのとは事情が違う。特にフルトヴェングラーの場合は、友人ヒンデミットのオペラの上演中止や追放を巡って、またはユダヤ人音楽家の迫害に対して公に抗議をした。そのような抵抗に関わらず文化的に微妙な問題を残した。それは、彼を遅くまで第三帝国に留まらした理由として「大管弦楽団の伝統の保護」と「文化的同一性を保持する聴衆の存在」を挙げた事である。特に後者は、戦後の非ナチ化裁判でも問われた文化的問題であると容易に想像できる。

同じ伝統や文化を共有してきた社会が、因習なり慣習を持ちそれが明文化されていなくともそれによって日常的生活が滞りなく捗るような事例は多い。典型的な例が挨拶の仕方かもしれない。もちろん個人差もあるが、異文化との出会いでその差異が問題となることも少なくない。冒頭に挙げた例では、新たなシステムの白地図の上に徐々に定まっていくものである。大海に放り込まれた人は泳ぎ方を自分で会得する。そしてそこでも使用される言語の母体となる社会が持つそれが、大なり小なり反映される。英語でも其々の社会の仕様によってボーダーレスとは成らないと推測する。

再び其々の文化が持つ独自の記号、もしくはコンセンサスを考えると、それは言語という媒体だけでなく、視覚、聴覚、臭覚と全ての感覚によって伝えられる。前ドイツ連邦共和国大統領が在任中発言した唯一つ印象的な表現がある。それを適当に意訳して再構築すると、「同じ建物の中で、ある階ではザウワークラウトを燻らし、ある階ではラム肉をグリルして、ある部屋ではカリーを炒め、また他の部屋では大蒜を匂わせ、醤油をチーズを....とその匂いを許容することが共存共生である。」というような大変文化的な発言があった。決して慣れているか否かだけなくて、其の匂いの元凶から楽しい食事を想像出来るかどうかの相違であり、非常に分かりやすい。上述の芸術の理解という場合、其の共通の記号は複雑に組み合わされる反面、その抽象的な記号は数学・自然科学のように一気に民族や文化のボーダーを超える。

それでは何故、この大指揮者は文化的ボーダーに拘ったのか。それは彼が生涯天職と思い込んでいた彼の作曲から明白である。彼の公の人生同様に、全てを彼の明白な個人的な芸術的ヴィジョンに捧げた。それを伝統と云えば聞こえは良いが、具体的なヴィジョンや因習となった規範は、独善を生むのではないか。其の自家薬籠中の全ては知らぬ間に滞りなく進行する。フルトヴェングラー家の出所であろうシュヴァルツヴァルトの町フルトヴァンゲンで、周りの喧騒にはビクとも反応せずに、羊の毛を音も無く綿々と紡いでいく白髪の老婆の姿が浮かぶ。



参照:
地霊のような環境の力 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-04-28
名指揮者の晩年の肉声 [ 音 ] / 2006-05-17
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19 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
創造力を働かせれるか? (pfaelzerwein)
2004-12-14 07:17:52
素さん、こんにちは。音楽家の方にコメントして頂いて光栄です。仰る風土的な面は、こちらで活躍されている日本人の音楽家の方々とも大分以前に話す機会がありました。この差異は至極当然のことである一方、それはある意味で「殆んど」超えられる問題であるという事も素晴らしい日本等の音楽家の活躍で証明済みですね。もう一つの時間的な面は、歴史の積み重ねという宝刀の前で如何に我々が創造力を働かせれるかという問題だと思います。勿論ここでは弁理上一つの例として芸術を上げただけで、全てに当たり嵌まるのではないでしょうか?
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トラックバックありがとうございました ()
2004-12-13 13:38:10
ご挨拶が遅くなりました。



その日に感じたことを気ままに書き放っているブロガーです。きちんと整った文章を前にどぎまぎしています。



何を書いたらいいのかよく分らないのですけれど・・・

その土地・風土の力というものがあるように思います。自分自身楽器を奏いていて、そういうものを感じます。四季のはっきりしている日本。冬になると昼もうす暗くそれが春になるとそれこそ一気に春になるドイツ。自分は日本人の血を受けているわけですけれど、ドイツに長く住めば、きっと違った音を出すようになるでしょう。



今は日本人もチーズを食べたりワインを飲んだり、暮らしもずいぶん変わりました。50年前は今とはかなり違っていたんだろうな、と思ったりもします。



的外れなことを書いていましたらどうぞご容赦ください。_(_^_)_
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遊べるお友達 (pfaelzerwein)
2004-12-11 05:24:24
yumiesさん、一緒になって遊んで頂いて嬉しいです。と同時に警告のカウンター・パンチも頂戴しました。慣習めいたものは出来る限り無いのが理想です。手探りの方が、遊び精神が発揮出来て面白いでしょう。まだ完全に機能を使い切っているとも思えないので、もう少し遊べると良いのでが。そして何よりも大切なのは、次から次へと関心や場所を移しながら、柔軟に対応しながら、お互いに遊べるお友達ですね。誰もが自由に入っていけるようなそのような輪が沢山出来るのが理想でしょう。



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トラックバック貼らせていただきました (yumies)
2004-12-10 20:40:11
このあいだはURL入れ忘れててすみません。この空間はもうすでに新しいコミニケーションの慣習みたいのができあがりつつあって、私は一人外国へ来たみたいです。おどおどしてますです。というわけで初めてトラックバック貼らせていただきました。これでいいのかな。またどうぞよろしく。
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理解は重要ではない (pfaelzerwein)
2004-12-06 20:19:06
iLandさん、ご意見感謝します。トラックバックのためのトラックバックとか云うのは宣伝の目的が含まれているのかなとは容易に想像出来ます。只、このようにコメントをして頂き、本来ならば殆んどコミュニケションをすることの無い二者が、少しの時間でもお互いの意見に耳を傾けるという事が素晴らしいと思うのです。初めのPCからPCへと全く先入観の無い時点から、HPからHPへと少しづつ相手を理解していこうとする作業を通した接触でありスリルがあります。この機能は、明らかに同じ趣味や考え方を持った人が集まる掲示板やフォールムと異なります。先入観や偏見(形骸化した因習)を排除した柔らかい接触が出来る事が魅力と思います。仰るように理解出来るかどうかは重要ではないと考えます。

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トラックバックありがとうございます (望 岳人)
2004-12-06 19:48:12
フルトヴェングラーの没後50年だったんですね。
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Unknown (iLand)
2004-12-06 19:16:17
トラバありがとうございます。

ブログというのはコミュニケーションツールとしての側面ももってるわけですが,というか,今の日本でブログが受け入れられているのは明らかにそういう側面で,な訳ですが,その一方で,リンクをはったりトラバを送信したりという,それ自体が意味を持っているという点も見逃せんなと。

人間と人間が意見を交換しているわけではなく,単にパソコン同士が通信しており,サイト管理者同士のコミュニケーションがなくとも,その用が足りるようになってしまっている。

以前だったら,サイトの内容がよく理解できなくてもリンクをはるなんて考えらんなかったと思うんですよ。



というわけで,すみません,記事の意味よく理解できませんでしたm(__)m
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沈黙 (frostcircusことハリー)
2004-12-04 19:35:16
フルトヴェングラーの存在が、というティピカルな議論ですと個々の評価があまりにバラつく気がします。

それでもこの大指揮者が2度のアメリカ招致(ニューヨークとシカゴ)を一度は受諾した事実もあります。

ゲーテを愛読したという彼が「世界市民」たろうという決断をした思い、それはトーマス・マンが第1次世界大戦中「非政治的人間の考察」を書いたのち亡命生活を経て至る曲折に比べるなら、遥かに明快な道のりにも感じられるのですが。

面白い話を読んだことがあります。

坂本龍一が村上龍との対談で言っていたことなのですが、

ヨーロッパ中世の音楽に当時の人々が感じていた「官能」は現代人には分からない、とい趣旨の発言です。

時代を下るに例えばベートーヴェンの時代なら曲の「フォーム」に感動していたことは現代人にも分かる。

ある時点で「音色」なり「フォーム」なりに感じた時代があって、それを通りすぎるといきなり理解不能になりうる

事態が音楽にはあるということです。

これを「ボーダー」と対置すればいくばくかの理解の助けになるかもしれません。

フルトヴェングラーの悲劇はすべての人に通低する「官能」を体現できたことではないでしょうか?

それならばトスカニーニでも持ち合わせていたことなのです。

彼の座右の言葉に「精神の官能化」と「官能の精神化」とありますが、すべてが暗喩的です。
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第三者の視点との間合い (pfaelzerwein)
2004-12-03 04:39:06
コメント有難うございます。切られお富さん、tetsuwancoさん。ご意見の内容拝見して、面白いと思いました。まず、誰か他の共感出来る人物との共通点などを探して行くと理解が主観的になってしまいます。これは「文化的同一性」としたものと呼応します。むしろ同時代の他の有名人物と比較していくと面白いかもしれません。たとえばトーマス・マンなどは如何でしょうか?何れにせよ自分のと第三者の視点との間合いを計るのも重要と思います。これはお二人の其々のコメントを読んでも得られます。それが臭覚に訴えるものであろうが聴覚であろうが同じです。実は書いてから、フルトヴェングラーが「ベルリンの聴衆を連れて行きたい」と名指したのはニューヨークからの招聘辞退の時か、自分のオーケストラの海外公演の時だったかと只記憶に頼っているのを反省しています。知的な理解を超えて、その音なり雰囲気に共鳴できるか如何かを言っていると思うのです。それで彼の作曲になりますが評価は別として、やはり同世代の他の作曲家と比べてみるというのは如何でしょうか。ドイツ語圏の聴衆が当時体感した音が聞こえて来るだけでなく、作曲の前提となった「因習化した」と指すものも見つかると思います。もし仮に理論的に新機軸があっても、交響曲やソナタを技巧的に理解出来ても、その展開や飛翔に共感できるかどうかはまた違いますね。彼が協会会長をして普及推進をしていたブルックナーの作品でさえ、その文化圏は限られます。彼が指揮者デビューの時に自作とブルックナーの第九交響曲をプログラム出来たというのが敢て言えば当時の空気でしょう。

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TBありがとうございます (ymd%footprints)
2004-12-03 01:41:54
クラシック方面には全くもって疎いのですが、ジャズの世界でも似たようなことはあるんじゃないかと思います。とはいえクラシックに比べたら全然歴史が短いのでかわいいものかもしれません。

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トラバお礼 (まにまに)
2004-12-03 00:21:28
pfaelzerweinさん初めまして。トラックバックありがとうございます。

私は元来ロックに衝動を得て音楽に開眼した者ですが、そのような者にも、フルトヴェングラーの限りなく疾走するブラ4、エンディングでオケが崩壊寸前となるバイロイト第9などは十分すぎるパワーをもっていました。

と始めたはいいが、まあとりあえず御礼のみです。(深い寛容を持ってお許し下さい(^^;))
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トラックバックのお礼とお返しです (冷熱)
2004-12-02 23:45:54
深みのあるトラックバックをいただき、嬉しいです。



確かにpfaelzerweinさんのお話は難しめですが、『良薬は口に苦し』との言葉もありますね。



フルトヴェングラーは文化的ボーダーに拘っていたとしても、彼の指揮するベートーヴェンが、極めてストレートに私を感動させたのは事実です。
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Unknown (みゆ)
2004-12-02 23:40:43
TBありがとうございます。

フルトヴェングラーさんは最近知ったばかりなのですが、実はずいぶん前に、氏が振っているとは知らずにバイロイト再開の第九をラジオで聞いてとても印象に残っています。特に合唱は、戦争が終って音楽祭が再開されて本当にうれしい、まさに歓喜の歌という感じでした。

近いうちにCD買う予定ですので、ちゃんと聞いたら感想書こうと思いマス
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トラックバックありがとうございます。 (tetsuwanco)
2004-12-02 14:56:09
「若い世代の才能が第三帝国でキャリアを積みナチスに協力しそれを利用したのとは事情が違う。」と仰っているところの「若い世代」とはカラヤン等を指すのでありましょうか。



それはさておき・・・



フルトヴェングラー氏の所謂ドイツ的尺度からして、彼の指揮者としてのレパートリーが限定されていたことやフランスのドビュッシーや、ラヴェルなど全く評価の対象ではなかった由、仰っておられることなんとなく理解できる気がいたします。トスカニーニが、積極的にフランス印象派の作品を取り上げていたのとは対照的であります。



ところで、フルトヴェングラー氏の作曲について。

彼の作曲から、文化的ボーダーに拘っている理由は明白であるとのことですが、私にはもう一つピンときません。というのも、私、彼の交響曲第2番しか耳にしておりませんので。



確かに、交響曲第2番は、がちがちのドイツ的な価値観で固められた構築的な作品ではあると個人的には、理解しておりますが。



フルトヴェングラー作品についての評価を添えて、彼の作品から、どうして文化的ボーダーに拘っていることに帰結するのか、ご教示いただければ幸いであります。





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はじめまして。 (切られお富)
2004-12-02 14:45:25
トラバありがとうございます。



あまり賢くないので理解したとは言えませんが…。



フルヴェンのドイツって、三島由紀夫や保田与重郎の「日本」に通じるものがあるってことですかね。むしろ、私にとってのフルヴェンは梶原一騎に通じるセンチメンタリズムって感じなんですが。カラダにくる、というのか。レニ・リーフェンシュタールに通じるものなのか?



あと、前ドイツ大統領の言葉ってちょっと引っかかります。じつは、以前私は台所共用の学生寮に住んでいたことがあります。自炊で簡素な和食を作っていた私は、同じ台所で、スパイシーな料理を作っていた東南アジア系の留学生に随分悩まされました。理性で親しく付き合えても、料理のきつい匂いには、正直ストレスが溜まったものです。(毎日ですから。)



特定の移民たちが固まって暮らすことの意味には、身体レベル、五感レベルなどからも必然性があるのではと、今は思っています。カラダは理性だけで制御できるもんじゃないですからね。



それでは。
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こんにちは(^^) ()
2004-12-02 12:32:25
pfaelzerweinさん初めまして、TB有り難うございました。妥協と寛容、日々そう思いながら、この歳になってもまだ、かりかりとして、大人げなく暮らしています。



田舎の話しばかりのBLOG覗いて頂き有り難うございました。
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妥協と寛容が必要 (pfaelzerwein)
2004-12-02 12:06:08
Natamaさん、ありがとう。毎日は十分に書けませんが、こうして言って頂けるだけで随分書き易くなります。難しいといわれるとやはり読み直します。文法的に余り酷くなければ、直しだすと限が無いので自身にも読者にも妥協と寛容を必要とします。それから有用な知識や情報はありませんから忘れた方が良いですよ。筆者自体が大抵は忘れるために書き付けているぐらいですから。それでも後で読むと面白いなと思う文章は、読者も面白いかなと。気がついたら何時でもコメントして下さい。



Natamaさんのサイトもこそっと覘いています。女性専科であまりコメントがし難い内容ですが、女性心理も楽しく勉強させて頂いてます。私の愛用石鹸を次回購入しましたら講釈に伺います。

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トラックバックありがとうございます。 (don_giovanni)
2004-12-02 11:38:39
小生の書いたものとは雲泥の差なので、お恥ずかしい…

でも、Natamaさん同様、「むずかすぃー!パート2」です(笑)



フルトヴェングラーのベートーヴェンは交響曲の「6番」と「9番」しか持っていません。

とりあえず、あと「5番」と「7番」が今すぐ欲しいです(笑)



どうもありがとうございました。
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むずかすぃー! (Natama)
2004-12-02 10:16:53
pfaelzerweinさん こんにちは^^

また遊びに来ちゃいました



相変わらず私には難しいです(;´∀`)

でもね、すごく勉強になるのですよ!!

ググりながら読むので色んな知識が身につきます。>すぐ忘れちゃうのだけど



これからも いろんな情報提供してくださいね~!

毎日楽しみにしてます
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