Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

上海公演での指揮者評価

2024-06-29 | 
今晩はミュンヘンからの生中継だ。新制作リゲティ作「ルグランマカーブル」のラディオ放送である。ケントナガノが指揮して演出ヴァリコフスキーなのでそれほど質の低い新制作とはならないだろう。しかし初日に私は出かけていない。それが全てを語っているだろう。

要するに今晩の公演で期待されるものがそれほど高くはないとなる。同作品は現支配人のドルニーの先生のモルティエ―支配人時代に作曲者臨席の下で上演されて、作曲家がかんかんになっていたのを具に見た。問題点は指揮者のエサペッカサロネンにもあったのだが、それよりははるかに上手にやると思う。

しかし、現在のあの座付き管弦楽団の最上質の音楽をそこから引き出せるかどうかはとても疑問に思っている。コロナ期間中にオールスターガラ公演でナガノもペトレンコが形作った楽団を指揮したのを聴いていて、その出来ることは分かっているからだ。

決して悪い結果にはならないとしても、態々ミュンヘンまで出向くだけの価値がないという判断である。勿論先ずは放送を聴いてそれなりの成果を吟味したいとは思う。

ベルリナーフィルハーモニカーの上海公演第二回目のペトレンコ指揮演奏会評が出ている。ペンパイ新聞のネット版のようだが、書き手は张可驹という人でとても良い。昨秋の日本での公演でここまで書けた人は新聞以外でもあったろうか?文字数もドイツの高級紙に劣らず、ジャーナルとしての詳細だけでなく、指揮者ペトレンコの中共デビューの意味をもしっかりと行間に書き込んである。

ブラームス「悲劇的序曲」に始まり、タンホイザー、そして「英雄の生涯」のプログラムで、ペトレンコがこの歴史的な楽団と道を歩むことになったその意味が改めて語られている。その意味を目の辺りにしてショックだったと書いている。それはDCHにて知っているつもりだったものが、やはりライヴでは違ったというものだ。

そしてその歴史を重ねるということが決して守りでなく攻めだとしている。それはその聴衆にその時代に反応しての演奏活動であるということを明言している。特にそれがあまり演奏されなかったレパートリーであるよりも核のレパートリーを演奏するときにより、新たなペトレンコ時代を評価している。

その美学的な方向性が、フルトヴェングラーやカラヤンの時代への憧憬に捧げられることはなく、ペトレンコにおいては指揮者が楽団との協力者であるということだとして、つまり指揮者の意味が変わってきていることを断言している。そしてその指揮に委ねる楽団の相違がオンタイムで表され他のがその日の演奏だとしている。

まるで、私がエンゲルにおける指揮者の機能が全く異なってきていることを書き手が読んでいたかのように、ペトレンコの指揮者の立場はプロデューサーの様であるとしている。(続く)



参照:
别特连科与柏林爱乐:王牌之演,以攻为守, 张可驹, 澎湃新闻 vom 28.6.2024
我について来る認識 2024-06-28 | アウトドーア・環境
チャーター飛行の話題 2024-06-27 | 雑感

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