Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

アマルガムの響きの中

2018-07-03 | 
新しい外付けハードディスクを購入した。先ずはノートブックのデーター類を現行の2TBのディスクにコピーする。今度はその殆ど一杯になっているディスクを清掃して、新しい3TBにコピーすることになる。つまり新たに1TB以上の容量が出来ることになる。ノートブックを調べると写真類だけで40GB以上、音楽が300GBほどあった。それ以外のヴィデオは殆ど整理可能だ。ドキュメント類は4GB越えと桁が違う。Dディレクトリー833GBから新たにどれほど空けられるだろうか。現在空き容量100GBぐらいなので、400GBほど空けたい。

承前)ミュンヘンの「パルシファル」は日曜日の二回目の公演を終えた。三回目は木曜日でその夜の券が出ていたが、やはり買わなくてよかった。初日には舞台は三分の一は見えなかったが日曜日にヴィデオで観れる。なによりも木曜日までに初日のそれが充分に消化できない。繰り返し経験しても混乱するだけだ。なるほど290ユーロのバルコン席の視界は半額42ユーロの席とはやはり違っていたことも分かった。

やはり音楽的にはこのオールスターキャストの公演は今までの経験した中で最も新機軸に富んだものだった。だから新聞評などもかなりその評価が散っている。ドイツ語の老舗ノイエズルヒャー新聞もニューヨークタイムスからもその焦点を絞るのに苦慮しているのが読み取れる。演出や美術に関して書き込んでも歌手陣について書いても指揮者と管弦楽団や合唱団について書いてもまだ足りない。

二幕が始まる時には、お決まりのようにバイロイトの見えない奈落に倣って一幕では拍手を受けないように最初から指揮者が入っていたのだが、いつものように出て来るとかなり強い拍手が沸き起こった。その指揮もこの幕は見せ所沢山で、歌手と管弦楽団へのパルス的なキューだけでなく、困難な重唱のアンサムブルを捌いていたが、その鮮やかさに寧ろ奈落に隠されていてその音だけを聞いていたバイロイトでの指揮を思いこさせる。それはその視覚的な指揮自体が楽曲の書法を語っていて、音楽を見せる指揮になっている。その部分が今度は全体の楽曲構造の中でどのような意味合いを持つかまでを認識しないと楽曲への理解は深まらない。指揮者の職人的な見事さに感心しているようでは本質的なものを見落としかねないところである。

それでも最近は不調とされたヴォルフガング・コッホの存在感を楽しめたのが何よりで、ヨーナス・カウフマンのベルカントと共にとても面白い配役で、まさしくキリル・ペトレンコの新機軸に相当する歌唱であった。この二人の歌唱を過小評価するのは間違いだと思う。ベルカントのヴァークナーと言うのはペトレンコの解釈に相当するからである。序ながらインタヴューでカウフマンは「トリスタンは二年以内」と言明していたので、これでペトレンコ指揮の最後の新制作は分かった。

そのカウフマンの発声とその歌唱に関しては批判の対象ともなっている。しかしシュテムメの見事なクンドリーがカウフマン曰く「クンドリーと称されるべき」神聖劇の歌であり、それとパルシファルのそれとの関係は決して誤りではない。この劇の構造は三幕で明らかになるのだが、先ずはそこを明白にしておく。カウフマンの歌唱に関しては「マイスタージンガー」にてそれほど必然性は無かったのだが、ここでは間違いなく掛け替えの無い役作りとなっている。その点はストリーミングで確認したい。

公演前にロビーで行われた公開放送にコッホ氏が出て来ていた。途中から聞いたのだが、このオペルンフェスト期間中最も活躍する歌手と紹介されていて、「有り難い指摘」と感謝していた。つまり、クリングゾール、ミケーレ、ヴォータンそしてオランダ人と八面六臂の活躍なのだ。今回は声もしっかりしており、恐らくバイロイトの三年目以上の歌となるのではなかろうか。そもそもバイロイトニ年目でもあまり感心しなかったのだが、こうしてカウフマンと並ぶとその歌唱の価値が新たに評価される。個人的にはこれで秋の「マイスタージンガー」の要であるザックスは期待出来ると思った。

音楽的にはコッホから始まって、難しいアンサムブルとなって、やはりシュテムメのクンドリーが引き締めた。特にハ長調からの口づけ、パルシファルの悟達へと三幕へと繋がるドラマが起こる。ここでのデュオが今回の公演の核心でもあることは間違いないのだが、恐らく公演を重ねてストリーミングの時には更に出来上がるのではなかろうか。管弦楽がイングリッシュホルンだけでなくアルトクラリネットまでがとても重要な音を出していて、歌手に寄り添う形となっているのだが、ここは逆に蓋付きの劇場のためにどのように考えて創作したのだろうかという微妙さが際立つ。それでいながら弦との掛け合いにおいて決して原色な音響とはならないように書かれているところなのだ。勿論「救済」されるまでという事であり、この幕の前半から後半へと、丁度そこがターニングポイントとなるのは周知の通りである。

再びコッホ演じるクリングゾールが登場してパルシファルの聖剣にその世界は崩れ去るのだが、倒れたところに上から現存する作家として四番目に高価と言われるバゼリッツの描いた緞帳が下りてくる。それを待ち構えていたコッホが体を捩じって幕の内側へと寝返りを打って入るところで少し苦笑が漏れる。如何にも目指したような昔の劇場風景という感じでなかなか得難い初日の光景だった。もう少し全体的に手作り感を強調しても面白かったかとも思う。演奏もそうした職人的な風情を強く感じさせていて、なにか座付き管弦楽団の歴史的演奏実践のような手作りを感じをさせて、室内楽云々と評しているようではまだまだペトレンコ指揮の新機軸にはついていけていない表現だろう ― ニューヨークタイムスが「ざらざらした弦の響き」と評するのはMETに比べるまでも無く当然だろう。私もこうして漸く続く三幕へと繋がる流れを掌握して来たように感じる。(続く

先日の実況ノイズの問題を再び洗った。対照実験して分かったのは同じ現象で再生されるのはBRクラシックだけで、他のARDストリーミングや海外局では起こらない。BRのそれの音質自体が可成り高速転送な印象は受けるのだが、昨年の12月時点では起こっていなかったので、何か規格が変わったのかサーヴァーが変わったのかは分らない。ただしそれはARDのまとめサイトでも中継を挟んでも同じなので、ラディオ放送でも同じ可能性もある。明らかに量子化歪のような音なので転送する前にエンコード時点で雑音が出ているのかもしれない。アップサムプリリングされていても雑音があるとなるとやはり問題だ。何時までも変わらないようならば問い合わせ苦情する必要もあるかもしれない。こちら側の機器やネット環境とは関係なさそうなことが分かったので先ずは気が休まった。



参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活

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