Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

舞台神聖劇の恍惚

2018-03-25 | 
バーデンバーデンの復活祭から帰宅した。しかし明日もあるのであまり詳しくは書いている時間がない。それでも頭を空っぽにして明日に挑みたい。さて短く纏まるか、試してみよう。

結論からすると、「パルシファル」は復活祭オペラの中では断トツの出来だった。「鳥肌もの」の声を聞いた。洟を啜る音が方々から聞こえた。それは第一幕と第三幕の中間部であって、ガイダンスのシマンスキー氏に言わせると、シムメトリー構造の二幕の真ん中の口づけ、それを囲む両幕の三部構成の各々真ん中のミステリウムのそれも初期バロック劇に相当する部分となる。要するにミサでもなく劇でもない、まさしく舞台神聖劇の意味するところはそれにあたり、ルネサンスのそれとはまた異なることになる。それが、「魔笛」の影響であり、「マタイ受難曲」の影響の一部であるともいえる。

特に一幕のそれは凄まじくその後に続く「天の声」の子供ならず女声の効果といい、もうこれは会場の音響効果を含めて六月のミュンヘンでは期待出来そうにもないエクスタシーに満ちていた。だから皆の洟が垂れ放題になってしまったのだ。その成果はなにもフィルハーモニカーの名人芸だけではない、ラトルのテムポ運びの適切さであり、これは恐らくラトルが今までなし得なかった音楽表現に違いない。前奏曲からしてとてもダイナミックスを押さえながら、まるで日本公演以降のキリル・ペトレンコの音楽表現をヴィデオで研究したかのようなそれなのだ。

そしてこうしてフィルハーモニカーを鳴らして、歌手を歌わせる限り、ミュンヘンの劇場の比ではない祝祭劇場のアコースティックを確認した。私などは六月との比較もあるが、もしペトレンコがそこで振っていたならばと思い浮かべて感極まってしまった。要するに管弦楽団の技術の問題だけでなくこの祝祭劇場が音楽劇場のメッカになる可能性を大きく膨らました。

そこで肝心の前日に聞いたハンス・クナッパーツブッシュ指揮のフィリップスの名盤で感じた疑問、つまりこの楽譜はあのバイロイトの深い奈落の中で何が何だかわからないような音響のアマルガムとして響くのが目されたとして、それならばブーレーズ指揮のそれが間違いで、クナッパーツブッシュのそれが正しいのかという問いである。これに関してとても明白な答えをシマンスキー氏は出してくれた。

つまり、前奏曲においてもまたミステリウムにおいても終結においても、その音響のアマルガムの中ではっきりと透明に木管が聞こえるようになっているというのだ。これに関しては前日クナッパーツブッシュ指揮のそれでもはっきりと上昇旋律でまるで音色旋律の様に受け渡されるそれを聞いて気が付いていたので、上のような疑問が生じたのだ。つまり三幕では、長い永遠に明けるかどうかも分からないような冬が明け、丁度この日のような春が遣って来る。その時の木々の梢の植物の芽生えのようなそれがまさしく木管の響きであり、囀りであろう。キリスト教の復活祭について詳しい人にはそれ以上は態々説明する必要が無いが、実は上のミステリウムというのは決してキリスト教的だけではないカーニヴァルに相当するとなると、更に語るべきことが増える。演出について語る時にでももう一度振り返ろう。つまりアマルガムから清澄となるところは歌詞の通り救済となる。

クナッパーツブッシュ指揮の当該録音では、記憶にあったほどには、三幕の聖金曜日の音楽はあまり成功していなくて、今日的な耳からすれば明らかに本日のラトル指揮の方が遥かに心を揺さぶる名演奏だった。そして歴史的演奏の一幕のその部分では崩壊直前のテムポ運びと運弓となっているので年齢的な体調もあったのかなと思ったのだが、ラトル指揮の聖金曜日からミストリウムにかけてのテムポ設定とまさしく運弓はクナッパーツブッシュのそれを想起させた。なるほどバイロイトのそれでは音楽的な精査とはならなかったがフィルハーモニカーならではの素晴らしい効果を上げていて、またここでもミュンヘンでは無理だなと思う反面いづれペトレンコ指揮になると思うと胸が一杯になる。

コンサート指揮者サイモン・ラトルではどんな歌手を集めても大きな効果を上げることが儘ならずとても惜しいことになる。合唱のフィルハーモニアヴィーンも楽友協会のそれとは格段の違いでしっかりした子音を響かせたプロの合唱団であるが、如何せんラトルの指揮では十分な歌い込みが出来ないどころか、花の乙女たちのアンサムブルでもとても惜しいことになっている。ペトレンコが振っていたなら同じメムバーでミュンヘン以上の成果を上げられるのではないかととても残念だった。それでもやはりいつも同じアンサムブルで芝居をしているというのはやはり違うかもしれない。しかしこの合唱団も潜在能力はとても高い。

歌手ではラトル指揮でも全く問題なく歌い熟すのはグールドでありやはり最後まで立派な歌だった。フィンレイのアンフォルタスはゲルハーハ―には遠く及ばないだろうが、ペトレンコ指揮のヤーゴは期待できる。グルネマンツを歌ったゼーリックは全く悪くはないどころかパーペのそれと違って最初から飛ばしていて、また指揮の弱音に合わせたそれはパ―ぺのそれより技術があるかもしれないと思わせたが、一幕後半になるとどうしても疲れも見せていた。それでも三幕では再び回復していたようで、体力はあるように感じた。エフゲニー・ニキーティンは声はあるのだが、技術的にヴォルフガンク・コッホの方に期待させた。その他声楽家にとってはやはりラトルの指揮で歌うのは気の毒だと思う。あの杓子定規な振りでは、息つくことなく、性格的に歌い込めなく、まるで合唱団のテュッティー以上の様には歌えない。

演出のディーター・ドルンは激しいブーイングを受けていたが、上の救済などの場面、更に奇跡、晩餐など特定の宗教性を排除してとても素晴らしい解決法で、流石にヴェテランのそれだと分かった。ラトルのピアニッシモからエクスタシーまでのそれに矛盾しない舞台作りは、一部人物の動かし方などに疑問はあったが以前のケントナガノ指揮のレーンホフのそれとは比較にならないほど優れていた。だから何時ものことながらあのブーイングは全く意味不明だ。

もう一つ書き忘れてはならないのはラトルのテムポ設定で、三幕でミストリウムから「晩餐」の倍速ほどの部分を挟む形となったが、それによってフィナーレまでとても全体のテムピが考え尽されていたことは言うまでもない。その意味においてこの上演はフィルハーモニカーの勝利ではなく指揮者の勝利であって、正しくパルシファル的に救済したという事になろう。バーデンバーデンの復活祭オペラ上演において、例えば「トリスタン」のそれはヴェストブロックの管弦楽に張り合うような歌唱とその鳴らしっぱなしの管弦楽ではなくて、少なくとも音を絞って求心的な音を出したことだけでもオペラ指揮者としての成長を示したのではないだろうか。勿論キリル・ペトレンコのそれと比較するのは酷であるが、少なくともネゼサガンのようなおかしなリズムも刻むことなく、立派に振り通した。やはりオペラ指揮者ケント・ナガノとは異なる超一流コンサート指揮者の舞台神聖劇上演だった。

"Parsifal" - Festspielhaus Baden-Baden 2018 ― このゲネラルプローべの管弦楽に心配していたが初日本番はダレた所は全くなかった。

Nach der Premiere: Wagners "Parsifal"




参照:
We're going to Baden-Baden 2018-03-11 | 文化一般
初物スカンポケーキ 2018-03-13 | 暦

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