Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

畳上の水練の馬鹿さ

2023-05-04 | 文学・思想
昨年10月から初めてのボールダー。その時は季節も悪かったが、身体が全然動かなかった。そして今、走りが戻ってきたように、少なくともコロナ前の感じには出来そうだ。僅かな時間であったけど、もう一息のところまで身体を持って行けるだけでやる価値があった。

体重は帰宅後に70.4㎏だったので結構絞られているだけのことはある。此の侭筋力がつけば数年前のベストにまでもって行けるかもしれない。肩の故障も休めた故か自覚症状は無くなっている。

ぶら下がって足を上げてもすんなり上がるので、腹筋は走りで強化はされないまでも落ちてはいないようだ。腰回りは走ると強化されていて、体幹もぶれ難くなっているので中々いいかもしれない。

やはり、上腕から指までが強化対象となるだろうが、一寸岩を触った感じでは他のところが強化されればそれだけ荷重を分散させられる感じで、意外なほどに不備は感じなかった。

演奏批評について一言。複製音楽録音批評もそこに含まれるのだが、これらはアカデミックな音楽批評とも音楽ジャーナリズムとも異なる所で営われている。先頃諸外国に遅れる事十数年で漸く日本の録音メディア商評誌「レコード芸術」が廃刊になると発表された。要するに広告収入が途絶えたという事だ。メディア産業の崩壊から時間が掛かり愈々である。

その間に、ネット配信などが盛んになって、更にベルリナーフィルハーモニカーのように独自のメディアを展開するようになったのが顕著な例で、そこにあらゆる商業媒体を否定して制作録音を良しとしないキリル・ペトレンコが君臨することになって、全てを制したのは2016年のことだった。その後も多くの引きづり降ろし工作があったのだが、我々の強い支持が制した。

その様なこともあって未だに音楽の創造や制作を知らない者から攻撃を受ける。要するに彼らに共通するのは畳の上の水練であって、創作が制作がどのように為されていくかを知らないので、まるで予定調和のように新版やオリジナル楽譜を逐語的に解釈しようとするどころか間違い探しという暇人のお遊びに終止する。

個人的にその種の批評家とも知己があるのだが、そうした文章を読んでいるとそうした現場を知らない人だという事が直ぐに分かる。まさしく通信教育で習った空手の様なものなのだ。そしてそもそもの演奏批評というものの無意味が顕著になってくる。

複製芸術はどこまで行っても複製であって、壁に飾っておくにはそれなりに用達。しかしそれを練習番号Nの三拍目のオーボエを押さえていたとか真剣に議論するのは、複製のポスターの印刷所で色見本をもとに注文した時の出来の色刷りの濃さを吟味するようなものなのである。自らで創作制作活動をしていない人はその馬鹿々々しさが分からないのだろう。(続く)



参照:
永遠に未完成な芸術 2023-05-02 | 音
原罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般

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