「吉田秀和 季刊『音楽展望』 ブレンデルの引退」と題した記事をBLOG「日々雑録 または 魔法の竪琴」で拝読する。この高名な文筆家には特別な想いがある。「今年も元気に渡欧されたときの模様」が掲載されていると知って、先ずは驚きと共になにも良い格好する訳ではないが、お元気なのを何よりと思う。
そうした素直な心情とは別に、やはりそうかと批判的にコメントするしかない。ヴィルトーゾピアニスト・ポリーニの演奏から何を聞くか?これは別なお話とは思うが、もし私が同じように高齢で態々遠くまで旅して何を聞きたいか?と考えると、容易に答えが浮かばない。
枕下にある若き吉田の「主題と変奏」というエッセイ集を読んで、そこに氏の全てが凝縮されていると考える。例えばベートヴェンの捉え方もベッティナ・フォン・ブレンターノなどを引用して「音楽は精神生活を感覚的に表現する」と語らせたり、ショーペンハウワーを下敷きに綴っている。
そうした生活は既に存在しないのか、それとも元々存在しなかったのか、それを諮るために伝達されるメッセージとして、氏はあくまでも古典的に対象物の「効果」に拘る。そして、その全身全霊に偽らず自己に与える効果を科学的に解析しようと語る。
そのように氏は、芸術作品の創造の過程から創造活動の創作者の知的活動やそれに纏わる再創造の営みやそれに対する社会の様相などよりも、自己に与える効果をなによりも重視する。そして、小林秀雄の心情をより唯物的に実証的に捉える立場を採る。そう、思い出そう小林の名言を:
「一切が疑はしい。さういう時になっても、何故疑へば疑へる様な概念の端くれや、イデオロギーのぼろ屑を信ずる様な信じない様な顔をしているのであろうか。疑はしいものは一切疑つて見よ。人間の精神を小馬鹿にした様な赤裸の物の動きが見えるだろう。そして性慾の様に疑へない君のエゴティスム即ち愛国心というものが見えるだろう。その二つだけが残るであらう。そこから立ち直らねばならぬ様な時、これを非常時といふ。」(神風といふ言葉について)昭和十四年*
ここで気がつくだろう。一つの事象に対して、どのように己が興奮したかを分析する。そして、それに他者の共感を感じて、より興奮する。これは、5W1Hの表現でしかない痴漢を激励する似非ジャーナリズムの卑猥な自己満足の終わり無きルーティンのポルノ表現でしかありえない。
被害者を哀れみて涙するのと、無差別殺人に喚起されて模倣するのと幾ばかりの差異もない。誰もが共鳴するものとは、いとも容易に同じ程の共感を持って反感を引き起こす。そこには、討議の方法としてのディベートによって即物的で複雑な問題の縺れを糸を解すように明確化して行く場合や、高度な政治問題を分かり安く大衆に問う二大政党制における二項対立による構造的な視野がある。
生殖でも何でもない行為とは、まさに大衆に向って投げ掛けられた娯楽と呼ばれる同情・哀れむ行為ではないだろうか。
同情とは、そもそも自己の感覚の中に、情報を自らのフィルターを通して変換して、疑似体験して勝手に思い込む行為でしかない。つまり、そこからは新たな知覚は生じないのである。それほど無駄な活動はないからこそ、これを大衆娯楽と呼ぶ。そうした疑似体験は、視覚でも、触覚でも、臭覚でも、味覚でも、聴覚でもそれは変わらない。
さて、上の今年限りの引退を表明したピアニストの件に戻れば、このピアニストのリサイタルが一体何を意味したかは、ここにて何度も綴っており、最後のフランクフルトの演奏会をも報告する事になっている。
しかし、今回の記事との関連で一言だけコメントしてみよう。想像するに吉田氏がタイトルをつけたらしい「明暗の世界が生む深み 律儀な演奏に境地を見る」事などは、どうでもよいのだ。それがベートーヴェンのものであれ、解釈者のものあれ、文化勲章受章者のものであれ、他者の疑似体験など気持ち悪くて仕方がない。
もし氏が一流のジャーナリストであったなら、もし日本に本当のジャーナリズムがあったなら、少なくとも伝えようとするだろう。なんら自らの感覚や心情では判らない、主義主張や世界観が理解できないところでの営みを:
「そして己の性慾以上に、疑えない他者のエゴイズム即ち反照が見えるだろう。その二つだけが残るであらう。そこから立ち直らねばならぬ様な時、これを平常時という。」(2008年)
共感などが生まれないからこそ、その対象の思考や行動を備に観察して、想像しなければいけないのである。その差異にこそ、創造の可能性が介在している。ステレオタイプな思考や観察には、創造力の飛躍する間隙など初めから存在しない。
そもそも、他者の行動を解釈して共感できる方がおかしいのではないか?効果に己が感じる結果よりも、行為者の思考や過程を尊重するのは何故なのか?そこにこそ精神の営みがあるからこそ、我々は時間を前に進む事が出来るからではないのか。
知的好奇心とは一体何なのか?
参照:
人為的ではない理想像 [ ワイン ] / 2008-06-20
蜉蝣のような心情文化 [ 文学・思想 ] / 2008-05-14
自己確立無き利己主義 [ 歴史・時事 ] / 2008-04-28
女子供文化の先祖帰り [ 文化一般 ] / 2008-04-20
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
形而上の音を奏でる文化 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-21
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
大芸術の父とその末裔 [ 音 ] / 2006-11-24
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
そうした素直な心情とは別に、やはりそうかと批判的にコメントするしかない。ヴィルトーゾピアニスト・ポリーニの演奏から何を聞くか?これは別なお話とは思うが、もし私が同じように高齢で態々遠くまで旅して何を聞きたいか?と考えると、容易に答えが浮かばない。
枕下にある若き吉田の「主題と変奏」というエッセイ集を読んで、そこに氏の全てが凝縮されていると考える。例えばベートヴェンの捉え方もベッティナ・フォン・ブレンターノなどを引用して「音楽は精神生活を感覚的に表現する」と語らせたり、ショーペンハウワーを下敷きに綴っている。
そうした生活は既に存在しないのか、それとも元々存在しなかったのか、それを諮るために伝達されるメッセージとして、氏はあくまでも古典的に対象物の「効果」に拘る。そして、その全身全霊に偽らず自己に与える効果を科学的に解析しようと語る。
そのように氏は、芸術作品の創造の過程から創造活動の創作者の知的活動やそれに纏わる再創造の営みやそれに対する社会の様相などよりも、自己に与える効果をなによりも重視する。そして、小林秀雄の心情をより唯物的に実証的に捉える立場を採る。そう、思い出そう小林の名言を:
「一切が疑はしい。さういう時になっても、何故疑へば疑へる様な概念の端くれや、イデオロギーのぼろ屑を信ずる様な信じない様な顔をしているのであろうか。疑はしいものは一切疑つて見よ。人間の精神を小馬鹿にした様な赤裸の物の動きが見えるだろう。そして性慾の様に疑へない君のエゴティスム即ち愛国心というものが見えるだろう。その二つだけが残るであらう。そこから立ち直らねばならぬ様な時、これを非常時といふ。」(神風といふ言葉について)昭和十四年*
ここで気がつくだろう。一つの事象に対して、どのように己が興奮したかを分析する。そして、それに他者の共感を感じて、より興奮する。これは、5W1Hの表現でしかない痴漢を激励する似非ジャーナリズムの卑猥な自己満足の終わり無きルーティンのポルノ表現でしかありえない。
被害者を哀れみて涙するのと、無差別殺人に喚起されて模倣するのと幾ばかりの差異もない。誰もが共鳴するものとは、いとも容易に同じ程の共感を持って反感を引き起こす。そこには、討議の方法としてのディベートによって即物的で複雑な問題の縺れを糸を解すように明確化して行く場合や、高度な政治問題を分かり安く大衆に問う二大政党制における二項対立による構造的な視野がある。
生殖でも何でもない行為とは、まさに大衆に向って投げ掛けられた娯楽と呼ばれる同情・哀れむ行為ではないだろうか。
同情とは、そもそも自己の感覚の中に、情報を自らのフィルターを通して変換して、疑似体験して勝手に思い込む行為でしかない。つまり、そこからは新たな知覚は生じないのである。それほど無駄な活動はないからこそ、これを大衆娯楽と呼ぶ。そうした疑似体験は、視覚でも、触覚でも、臭覚でも、味覚でも、聴覚でもそれは変わらない。
さて、上の今年限りの引退を表明したピアニストの件に戻れば、このピアニストのリサイタルが一体何を意味したかは、ここにて何度も綴っており、最後のフランクフルトの演奏会をも報告する事になっている。
しかし、今回の記事との関連で一言だけコメントしてみよう。想像するに吉田氏がタイトルをつけたらしい「明暗の世界が生む深み 律儀な演奏に境地を見る」事などは、どうでもよいのだ。それがベートーヴェンのものであれ、解釈者のものあれ、文化勲章受章者のものであれ、他者の疑似体験など気持ち悪くて仕方がない。
もし氏が一流のジャーナリストであったなら、もし日本に本当のジャーナリズムがあったなら、少なくとも伝えようとするだろう。なんら自らの感覚や心情では判らない、主義主張や世界観が理解できないところでの営みを:
「そして己の性慾以上に、疑えない他者のエゴイズム即ち反照が見えるだろう。その二つだけが残るであらう。そこから立ち直らねばならぬ様な時、これを平常時という。」(2008年)
共感などが生まれないからこそ、その対象の思考や行動を備に観察して、想像しなければいけないのである。その差異にこそ、創造の可能性が介在している。ステレオタイプな思考や観察には、創造力の飛躍する間隙など初めから存在しない。
そもそも、他者の行動を解釈して共感できる方がおかしいのではないか?効果に己が感じる結果よりも、行為者の思考や過程を尊重するのは何故なのか?そこにこそ精神の営みがあるからこそ、我々は時間を前に進む事が出来るからではないのか。
知的好奇心とは一体何なのか?
参照:
人為的ではない理想像 [ ワイン ] / 2008-06-20
蜉蝣のような心情文化 [ 文学・思想 ] / 2008-05-14
自己確立無き利己主義 [ 歴史・時事 ] / 2008-04-28
女子供文化の先祖帰り [ 文化一般 ] / 2008-04-20
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
形而上の音を奏でる文化 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-21
古典派ピアノ演奏の果て [ 音 ] / 2007-10-11
モスクを模した諧謔 [ 音 ] / 2007-10-02
明けぬ思惟のエロス [ 文学・思想 ] / 2007-01-01
大芸術の父とその末裔 [ 音 ] / 2006-11-24
本当に一番大切なもの? [ 文学・思想 ] / 2006-02-04
岡本かの子自体が一般的にはどのように見られているかは幾らかは知っているので、そうなのかと早合点してしまっている面もあるかも知れませんね。
エゴのぶつかり合いとか、共感とかについては、特に社会のなかでのそれを通常はあまり考える事がないので、それを思考するのもなかなか興味深いと思います。
もう一つ、年齢を重ねれば重ねるほど、思考の柔軟性は無くなって、新たな情報を上手く処理出来ないという問題と、それでも幾らかは経験から少しでも新たな理解が進むと言う、謂わば加齢によって実質IQ値が上昇する現実があります。
もし後者がないならば、文化人知識人は皆五十路を待たずに自害しなければいけないでしょう。
クラシックをあまり聞かない僕が、
乱入するのはおこがましいにも程があるという感じですが…
小林秀雄あたりのくだりで、
ふと思い出した言葉がありまして…
なんというか、深くも考えられそうだし、
そのまま、ふーんと流すことも出来そうだし…
そんな言葉で、よく分からないままだけど、、
引用しますと…
岡本かの子の『老妓抄』の最後で。
(主人公は最後にお相手に逃げられそうになるのですが)
「年々にわが悲しみは深くして
いよよ華やぐいのちなりけり」
うーん。
こんな言葉を、思い出しましたね…。
(ただそれだけなんですけれども…ゴメンナサイ。(ぁ;
あ、あと昔深夜にこんな映像もあったなあ…。
http://jp.youtube.com/watch?v=nxwGP449yI8)
岡本かの子も、その興味の遍歴とともに、
ちゃんと読んでみたいですね…。そう思いました。
上の説からすると他者にとってはどちらでも良いことになりますが、心情的にはこの二人の文筆家とピアニストとはとても深い繋がりをもっているのを否定出来ません。
そして好き嫌いではなくて、何に関心を抱かせるかと、その作用(効果に対応する)を考えて行くとどうしても上のような考察に至ります。
吉田氏が従来参考にするヨアヒム・カイザーとブレンデルの対談を今ネットで見つけて読んだのですが、昨今のピアノ市場の中でのショパン好みが語られています。その背景を考えると興味深いのですが、それは中欧の音楽伝統とはまた異なった世界である事は違いないでしょう。
吉田氏が昔ドイツで「お前にはブルックナーはまだ無理」と言われた文章は有名ですが、その意味合いをやはり上の考察で感じました。
そうした吉田氏自体が経済的事情からではなく ― そのために功労賞の終身年金がある ―、市場の中での無力な一文筆家として何一つ発言出来ないのはとても嘆かわしい。
先日来「Phアナログのハンマークラヴィーア」や「ハイティンクとの皇帝」のLPを聞きましたが、現代においてこれらの曲を演奏する価値を見出せるかどうかと問えば、そのブレンデルの行為自体が興味尽きない回答となっています。
因みに上の対談で、グルダのジャズピアニストとしての「冷血なベートーヴェン」と、ソロモンの「問題あるベートーヴェン」が語られていることを余談として付け加えておきましょう。
ブレンデルについては、私の記事で書いたように、pfaelzerweinさんからいただいたコメントが、ブレンデルへの興味関心の再燃のきっかけでした。
今回の件、吉田さんも90歳を越える大変なご高齢ですからブレンデルの引退年のリサイタルに行けなかったのは体調や体力的な問題等もあったのではないかと憶測するのですが、それでも今回の『音楽展望』は非常に意外な感を持ちました。
自己弁護的に、ブレンデルへの興味の低下が日本の音楽鑑賞界(というようなものがあればですが)の風潮になっていたと書きましたが、ブレンデルを比較的高く評価していた吉田さんが敬遠していたというのは、正直言ってショックでした。
貴記事の趣旨とは反するかも知れませんが、フランクフルトでのリサイタルの様子をエントリーとされるのをお待ちしております。