初日の評が数時間後に出ている。当然ながら総稽古を観てからの評であろう。書いてあることは、ドレスデンの州立劇場に所属している演出家の舞台美術的な展開と三部での配役の分け方など事前資料で分かることを手短にまとめて、それらがどのような印象を与えたかについて言及している。つまり根の張った地下を見せて、それを上下させることで、その気持ちの悪い雰囲気など、死を扱った三部作として明白に初日の聴衆から肯定的な反応を受けたとしている。
つまり、殆どの行を既に用意してあったところで、初日の反響から数行を書き加えたものだとしてよいだろう。それも複数の著者によって書かれている。マガジンムジークホイテはある意味業界の情報誌として長くあって、同時に広報にもなっている。日本の音楽の友社の雑誌の様であり、玄人の業界に向けられているものである。
然しそれでも音楽的な特徴を五音階のペンタゴンに半音を一つ加えた六音階組織の拡大と分析解説してあって、これはまさしく先日からここでも述べておいた上行・下行において変化をもたらすものであることで間違いがない。
そこで今回ライマンを初めて指揮するとするエンゲルの音楽を称して、エレガントにそれを処理する一方、これまたここでも強く短い密な動機のダイナミックスの正確さが初演指揮には欠けていたとしたスタッカートが死への恐怖として印象を与えるように釈然としていたと評価してある。そしてこれまた想定されたように三人の流暢なカウンターテノールがものにしていたと特筆評価している。
この点に関しては公演前のレクチューアでエンゲルについて特に言及されていたのだが、遠く喧しくて聴き洩らしたが、作曲家が死の前に頻繁に接触していたとあったので、次回にこの点も確認しておきたいと思っている。
なぜならば、今回の演奏では実は不明確な点が幾つも生じていたからだ。アンサムブルが充分に練れていなかったことも事実で、先ずは無事に初日を修了したという感じもしないではない。個人的にはそこで不満も少なくなかったが、後ろの列にいつも陣取っているおばさんに最後に尋ねると「よくやっていた。」と満足げだったのだが、私がエンゲルの友人だと知っているのでまあ悪く言う理由もなかっただろう。そのおばさんには前回はニールセン作曲「マスケラーデ」初日の時に隣に座ってお話しをしたのだった。
それは前述の上下行やその展開が、聴いていて納得させるだけの表現が出来ていなかったことで、明らかに古典的なドイツェオパーベルリンではより和声的な派生としての調性感が基調になっているからこそ表現が不足していて、今回はよりそこの色付けによっての表現が演奏技術的により難しい演奏を求められていたことも分かる。抑々コントラバスまで分奏させるので、並大抵でないことは分かる。
更にプログラムにテキストが載っていなかったことで、字幕をどうしても一通り見ておきたかった理由もある。独逸語と英語だけだったので、そこから仏蘭西語を想像して聴くしかなかった。後ろのおばさんに声かけたように何回か来ないと駄目だというのは正直なところで、勿論楽員が慣れることで意味づけの確りした演奏をして欲しいと思っている。さて、録音はされるだろうが、これだけ評判がいい演出となると映像でないと駄目だろう。(続く)
参照:
L’Invisible" begeistert in Frankfurt, Musikheute vom 30. März 2025 - 22:58 Uhr
身体的運動で見出せる死 2025-03-30 | 文学・思想
そこにいるのは「死」 2025-03-26 | 音
つまり、殆どの行を既に用意してあったところで、初日の反響から数行を書き加えたものだとしてよいだろう。それも複数の著者によって書かれている。マガジンムジークホイテはある意味業界の情報誌として長くあって、同時に広報にもなっている。日本の音楽の友社の雑誌の様であり、玄人の業界に向けられているものである。
然しそれでも音楽的な特徴を五音階のペンタゴンに半音を一つ加えた六音階組織の拡大と分析解説してあって、これはまさしく先日からここでも述べておいた上行・下行において変化をもたらすものであることで間違いがない。
そこで今回ライマンを初めて指揮するとするエンゲルの音楽を称して、エレガントにそれを処理する一方、これまたここでも強く短い密な動機のダイナミックスの正確さが初演指揮には欠けていたとしたスタッカートが死への恐怖として印象を与えるように釈然としていたと評価してある。そしてこれまた想定されたように三人の流暢なカウンターテノールがものにしていたと特筆評価している。
この点に関しては公演前のレクチューアでエンゲルについて特に言及されていたのだが、遠く喧しくて聴き洩らしたが、作曲家が死の前に頻繁に接触していたとあったので、次回にこの点も確認しておきたいと思っている。
なぜならば、今回の演奏では実は不明確な点が幾つも生じていたからだ。アンサムブルが充分に練れていなかったことも事実で、先ずは無事に初日を修了したという感じもしないではない。個人的にはそこで不満も少なくなかったが、後ろの列にいつも陣取っているおばさんに最後に尋ねると「よくやっていた。」と満足げだったのだが、私がエンゲルの友人だと知っているのでまあ悪く言う理由もなかっただろう。そのおばさんには前回はニールセン作曲「マスケラーデ」初日の時に隣に座ってお話しをしたのだった。
それは前述の上下行やその展開が、聴いていて納得させるだけの表現が出来ていなかったことで、明らかに古典的なドイツェオパーベルリンではより和声的な派生としての調性感が基調になっているからこそ表現が不足していて、今回はよりそこの色付けによっての表現が演奏技術的により難しい演奏を求められていたことも分かる。抑々コントラバスまで分奏させるので、並大抵でないことは分かる。
更にプログラムにテキストが載っていなかったことで、字幕をどうしても一通り見ておきたかった理由もある。独逸語と英語だけだったので、そこから仏蘭西語を想像して聴くしかなかった。後ろのおばさんに声かけたように何回か来ないと駄目だというのは正直なところで、勿論楽員が慣れることで意味づけの確りした演奏をして欲しいと思っている。さて、録音はされるだろうが、これだけ評判がいい演出となると映像でないと駄目だろう。(続く)
参照:
L’Invisible" begeistert in Frankfurt, Musikheute vom 30. März 2025 - 22:58 Uhr
身体的運動で見出せる死 2025-03-30 | 文学・思想
そこにいるのは「死」 2025-03-26 | 音