Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ヴィーンでの家庭騒乱

2024-02-20 | 
月曜日にヴィーンで演奏されるプログラム。なにか忙しくて生中継でも再放送でも聴けていないが、ラディオの録音は流した。後半のい家庭交響曲が問題になるところだろう。少なくともミュンヘンで演奏していれば批評は厳しいと思う。如何に作曲家にの音楽に馴染んでいるかどうかである。

やはりベルリナーフィルハーモニカーのアンサンブルがその音楽になっていない。アーカイヴになってハイレゾでじっくり聴いてみようとは思う。なぜならば来月の楽劇「エレクトラ」の為に敢えてここで演奏させる意味合いがある筈だからだ。それが知りたい。

この曲は2016年のペトレンコ指揮のミュンヘンの座付き管弦楽団の欧州旅行で、その最終日のフィルハーモニーの演奏は生中継されていて、今でも容易にそれと比較することは可能である。そしてベルリンでは、批評よりもフィルハーモニカーやより現場に近い人によって大絶賛されたように受け取っている。

それは奇しくも今回の演奏でその意味が浮かび上がることになっている。交響曲とはされながらもその表現はとてもオペラ的なのである。昨秋日本でも演奏された「英雄の生涯」もそうなのであるが演奏で語るその語り口が核心となる。

その節もベルリンの批評では、その後に演奏された「マイスタージンガー」前奏曲が流石に座付き管弦楽団と大賞賛されているのを見聞きして、如何にベルリンでは歌劇とかそうした音楽に関して理解されていないのかと納得したのだが、今回もベルリナーフィルハーモニカーの演奏に対して絶賛の声が上がるのをみるとこれは文化がそこまで達していないと思うしかない。

昨年のテムペルホーフでのヘンツェの「メデュサの筏」上演においても音楽劇場の中での音楽的構造に関して言及する批評もなくて、演奏会とそうした舞台作品との間での理解の落差のようなものを感じたが、やはりいい聴衆が育っていないと良い上演もされない。

ベルリナーフィルハーモニカーの演奏上の問題は多々あるのだが、やはりなによりもアンサムブル文化が熟成されていない点が最大の欠点であって、その要因にはカラヤンサーカスの音響がある。ああいう所で演奏していると本当の文化とはならない。

勿論天才ペトレンコのことであるからそれらを全て知り尽くしての指揮であったのだろうが、やはりそれなりのフィードバックがないことには演奏に活きて来ない。その点でもヴィーンのムジークフェラインでの演奏とその反応などが重要になってくるだろう。

「英雄の生涯」においても夏のツアーではサライカのリードによって、音楽が語られたことがなによりも成果だった。そして来月の「エレクトラ」は誰が楽団を率いるのかは分からないが、昨年の「影のない女」以上に物語が、その内容が音楽によって語り尽くされるかどうかが聴きどころになるのは始めから想像できるのである。特にタイトルロールのシュテムメの声は決して大きくはなく、如何にそれを語り尽くせるかでしかない。
Strauss: Sinfonia domestica / Petrenko · Bayerisches Staatsorchester

Wagner: Die Meistersinger von Nürnberg: Prelude / Petrenko · Bayerisches Staatsorchester




参照:
あるべき姿の独逸 2024-02-19 | 音
虫干しにするファイル 2020-12-07 | 暦

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« あるべき姿の独逸 | トップ | 内部からSDカードに移動 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿