Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ネゴシェーションの政治力

2015-09-19 | 歴史・時事
前日から歩けなくなった。PCのCPUを弄っているときに長い時間屈んでいたりしたので、腰にきて、そして太ももの内側が極端に張っている。最初に気がついたのは、朝の手洗いに行くときに後ろのめりになりそうになって、足元が安定しなかったときだ。その後、48時間ほど経ったが、痺れは消えたが、まだまだ足元が上手く調整できないで、躓きそうになる。一度走りに行けば直るかとも思うが、さてどうだろう。

朝起きて、Uストリームを見ると、京都で高校生のパレードが始まっていた。時差があって、こちらから見ているよりも厳しい状態だろうが、寝不足気味でも早速行動が始まっている。平和主義や民主主義だけでなく、立憲主義の加護を訴える姿勢を見て、とても頼もしい。

それどころか、数による政治への否定と、為政者への全権委任の誤りを指摘しており、これならば安倍政権や自民党そして大阪のやくざ勢力、それどころか小沢何某の主張をも完全に弾劾していて、決して民主主義はそうしたものではないことを諭しているのである。日本の政治やその政治家の質は三流として知られているが、有権者だけでなく義務教育も終えていないような生徒までが先進工業国並みの知見を示しているのである。

これならばまるで霊感商法のようなポピュリズムの罠にはまることも無いだろう。考えてみれば、オーストリアのケルンテン地方の有権者などよりも京都やその他日本の市民の方が遥かに教育程度は高い。決して、教育程度の高低が無視できないと思い直させる事実である。勿論その教育程度とは決して、初中高等の進学率ではなくて、その質の差であろう。

九条護憲のパシフィズムが大きな声となるかどうかはとても疑問であるが、もし日本が「普通の国」になろうと思うならば、先ずは政治がそれなりにならなければいけないということだろう。こうした社会の高度な見識や声を政治に反映しようとするならば、連邦共和国メルケル首相が採るようになった政治手法と政治力が必要になる。連邦共和国においてもそのような変化が生まれてきたのはこの数年のことである。嘗ては専門家の意見が交わされて、その議論中から国民が選択するような世論の形成がなされてきた。選択肢は政党の数しかなかったのである。日本の政治家には、ネゴシアンとしての本来の政治力が試されている。決して、トップダウンの政治力は期待されていない。

シナでは、街角でも敗戦国日本が占領国合衆国の言うなりに派兵しなければいけない様になってきていると今の日本の現状が話されているそうだ。あれほど反日が政治宣伝に使われたシナの街角でもとても冷静な判断がなされていると聞いてとても驚く。それは、爆買に表されるようなその文化的な親近性がそこにあって、占領国合衆国よりも遥かに知日である社会が形成されてきているということであろう。合衆国に対して言えば、やはり元中曽根首相の暴言ではないが、決して均質的な社会ではないので、そのような文化社会的な期待は到底叶わないのである。来年の二月ごろから、アフリカの大地を舞台に、対中共資源支配に対抗して、合衆国の指導の下利権を奪いに自衛隊が借り出されると言われている。



参照:
問われる近代の歴史 2015-09-13 | 歴史・時事
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
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