Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

事実認証とその意味の認識

2015-09-07 | 
承前)朝の気温は摂氏10度近くまで下がっていた。森を走りながら、何を書こうかなどとも考えていた。肌寒かったが、坂を登っているうちに汗を掻いた。駐車場に停まっていたライヴァルのばあさんの車を見ていたので、そろそろ帰った頃だろうかと下りにさしかかると、同じ方向に下の林道を歩いているのに追いついた。結構似たところを歩いているのだ。帰ってくると、体重が71KGと大台割れを目前としていた。さすがに体の切れがよかった。

さて、「神々の黄昏」序幕に続き第一幕をまとめておこう。幾つか耳に止まった箇所があったが、先ず上げておかないといけないのは、ギービッヒ族に招かれたジークフリートがそこの娘グートルートに勧められた愛の酒を口に含んだ時に「隠れ兜の動機」に続いて、音楽はまさしく「トリスタン」と相似であるのだが、昂ぶるチェロの響きやそのダイナミックスとリリックな音楽運びが注目に値する。それが奈落の底から湧き上がるように祝祭劇場に響き渡る情景がそこに広がる。

そして兄弟の杯を飲み干し、再びブリュンヒルデのところへと戻るためにジークフリートを送るグートルートの景までの音楽運びは、その多彩な音形がさすらい人やアルブレヒトなどのそれとの関連をもって、ここまで聞き取れることは今までなかったであろう。バイエルン放送のレイポルト氏の、「序章に続きここまでに精妙に柔軟で、音色豊かに楽員を熱狂にかきたてながら正確に演奏させている」この指揮者への大賛辞の核心であろう。

ヴァルトラウテとブリュンヒルデの二重唱では、「だら下がりに安定」したキャスリーン・フォスターの歌声に対して、前者の管弦楽にのる歌声が見事で、余計にその問題点が明らかなところだが、この管弦楽の色彩に似合った歌声として改めてその管弦楽法と奈落の意味合いに思いを巡らすことになる。

FAZのおばさんに言わせると、この一番長い幕で僅か二時間ほどしか掛かっていないが、またまたここで今まで一度も聞いたことがないと思われる箇所箇所が、流動的な透明性のなかに、指輪のドラマティックな雄弁さをもって、その最後の網目までが磨き上げられるようにして浮かび上がるとしている。事実認証である。これをして、バイエルン放送のように、ペトレンコ以上にスリリングに指揮することは殆んど無理だとなるのだ。

この事実認証は、実は管弦楽演奏のもしくはこの近代音楽文化の重要な認知へと導かれるのだが、それはこの幕においても楽匠が書き込んだ楽譜に浮き出す書法に萌芽しているとも見て取れる。その認証の意味を深堀りするとそういうことになるのである。この幕においても若干の演出上の改良?が見られたとある。それは、初日に訪問したメルケル首相の腰掛けた椅子の足が折れて、すわ大事件と報道されたことのパロディーとして、ブリュンヒルデが腰掛けるキャンピングの椅子からずり落ちるというギャグである。こんなどうでも良いことは書き残しておかないといけない。

こうして聞いてくると今回の録音でも永久保存版の価値があることに今更ながら気がついて、そのデータを整理した。その全曲録音のデータを整理するのに他のことをしながら二三時間掛かった。全部で6GBほどのWAVを幕毎に切って、MP3として使えるようにしたのである。MP3はインデックスを入れれないので、全曲を流すか先送りするしかないのである。こうした場合非常に不便だ。そして調べてみると今まで聞いていたヴァルキューレとジークフリートはMP3の質が落とされていたのだった。そしてオリジナルをDVD三枚に焼けることを発見して、これならばCDプレーヤーでと勘違いしたが、もちろんDVDは演奏できない。CDに焼くことで聞くこともできるが、全部で10枚以上になってしまう。先ずは次の二幕だけでも試してみようか?(続く



参照;
プロローグにカタリシス想起 2015-09-03 | 音
評価可能になってきた 2015-08-31 | 暦
コメント
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