Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

プロローグにカタリシス想起

2015-09-03 | 
ようやく楽劇 「神々の黄昏」へと進む。まずはプロローグから第一幕へと向かう。最初の場面のノンネの三重唱が前夜祭「ラインの黄金」でのラインの乙女のそれに対応するが、前夜「ジークフリート」における「世界への挨拶の動機」はここでは半音下げられて、まさしく我々を覚醒させる動機ともなる。それは当然で、「マクベス」の魔女の情景のそれに相当する劇作のパロディーのようである ー 黒澤の「蜘蛛の巣城」のそれである。そこにおける響きは、このペトレンコ指揮の演奏では朝霧のような「自然の生成の動機」の中で、とても鋭い響きが印象的で、これまたどうしてもブレーズ指揮のそれと比較したくなるところである。ここでも木管と金管のバランスが厳密に調整されていてそれがメリハリとして響くので、どうしても続く「ラインへの旅へ」の流れへと次のような批判を誘発するのだろう。まさしくそうした音楽的な糸を紡ぐような作曲がされているからなのだが、そうした創作の面白さが解らないような職業物書きがいるのに愕然とする。

ここではもちろん「ラインの黄金」の冒頭のように荒瀬で船から突き落とされるようなことは起こらない。それについて新聞はわざわざこう書いている。カイルベルト指揮の録音における船旅の蒸気機関の情景の迫真までは至らないで、まだまだ現在進行中のペトレンコの「指輪」であるが、そのダイナミックで華やかな、具象的でありながら、リズムもハーモニーも洗練されているので、誰にでも勧められる演奏だ。こうした持ち上げていながら落とす表現で、あまりにも早く通り過ぎてしまうのでご不満のようで、まるで自分たち音楽の経験豊かな聞き手はそれでも肝心な点を批判はできるのだと言いたげなのだ。しかし我々からすると、そのもの創作の本質的なところを全く理解していないことを晒しているに過ぎないと感じる。

その実は、ノンネの三重唱に続く愛の二重唱の日の出への時へと繋がり、そしてラインの船旅の景となるのだが、そもそもこのプロローグではそれまでのおさらいのように様々な動機や音形が組み合わされ想起されることで音楽的な統一感とともに終幕へと向けたまさしく序奏となっていて、なるほどペトレンコ指揮ではそれが目まぐるしくまるで走馬灯のように過ぎ去るアドレナミンの発射効果が意図される。昨年のその時の印象をまざまざと思い出すのだが、その時点でその破局におけるカタリシス感を先取りさせるようなスリル感とワクワクさせる期待感が膨らんだのだった。この楽劇の創作における修辞法のような楽匠が意図したそのものの「蜘蛛の巣城」から始まる一コマであった。

ついでながら、指揮者カイルベルトは最後の楽師長と市場では全く想像できないほど楽屋内で尊敬されていた職人親方であったわけだが、そもそも二十世紀の中盤まではごく普通の指揮者の経歴の典型であり、その世紀になってようやく現れたコンサートをもっぱら指揮するというようなフルトヴェングラーを頂点とする音楽家は、その中から選り抜きエリート中のエリート音楽家であったのだった。その意味からは、楽師長とし崇められるのは勲章であって、オペラなどの演奏がそうした世界でなされていたことを改めて思い起こすことになる。それは、そのもの指揮者ペトレンコは、再び過去のような経歴を経たことからオペラ指揮者のように思われているが、このプロローグの響きやその音楽的な発想、そしてブルックナーや自然倍音を多用する創作のそれをはるかに超えるグスタフー·マーラーの交響曲を捌く如くの演奏に、明らかにコンサート指揮者であることを証明している。要するに音楽的な素材を正確に意図された通り自由自在に紡ぎだすそのバランスは、もはやロマンティックオペラにおける和声感を通り越して、アルバン·ベルクの楽譜の声部指定があるかのような図星の手練手管を披露している。(続く



参照:
胸パクパクでラインに転覆 2015-07-29 | 音
全曲を無事エアーチェック 2015-08-18 | 生活
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
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