Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

それで十分な銅色の施し

2015-09-12 | 生活
物乞いに70セント恵んだ。久しぶりの事である。あまり恵むことがない方である。若く小柄な男が、八百屋の店先で、声を掛けてきたときには、顔見知りかなと思った。こちらは知らなくても、向こうが知っていることが多いからだ。すると腹が減って金をくれと物乞いするのだ。そのようには思わなかったのでそのまま店に入り掛けると、何か声が掛かったような気がした。そこで急に考えが変わって、財布を出して、あまり考えずに小銭をカップに入れた。勿論ありがとうと、それなりに姿勢を示した。銀色ではなくて、銅色の硬貨しか投げ込まなかったからである。

そして店に入ってから、ホウレンソウなどを選り分けていると、自分自身も朝食抜きだったこともあって、その男のを考えた。屋台で何かを立食いにするにしても5ユーロほどは欲しい。そこまであの男が集めるにはどれほどの人から施しを受けないといけないだろう?そのようなことを考えているうちに余計に気になった。店を出る時に辺りを見回してみた。まだそこらあたりで物乞いをしているかと思ったのだ。

直ぐに気が付いた。彼は、近所のパン屋にでも行ってパンの一つも買って、頬張っているだろうと。その男の様子を見て、男の腹の空いたような声の出ない感じにも疑いはなく、そして謝礼の感じにも嘘はなかった。物乞いを生業にしている人もいたが、あのドイツ語を喋れる男はそのような感じではなかった。腹が減っていたのである。

なぜ、5ユーロも集めないと空腹を満たすことが出来ないのか?全く、こちらがとんでもない考えをしていたことに気が付いた。なるほど山の中で腹が減っている人が居れば、パンの一つぐらいは見ず知らずのもにでも都合するのがふつうである。しかし、街ではそのようなことを考えない。毎日のように一つのパンを捨てている人も数多くいる。それでも、その数十セントの金を恵むことに抵抗がある人も少なくないかもしれない。しかしその価値を考えるべきだ。腹を空かしている者を無視できない。それで十分なのだ。



参照:
浮浪のおばさんとの再会? 2014-10-21 | 文学・思想
しなやかな影を放つ聖人 2007-12-15 | 文化一般
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