Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

大掃除にはカール・リヒター?

2009-12-24 | マスメディア批評
車のラジオからひっきりなしにバッハの音楽が流れる。そうした時期に新譜紹介とは分からないような形をとって、バッハのそれを文化欄筆頭記事としている。

なぜこの時期にバッハなのかを、どうしようもないお先真っ暗の構造不況のクラシック業界から紐解いて行く。少なくとも夏が終って、クリスマスセールへの生産が始まる頃から「バッハの時」がやってくることだけは分かっているのだと。

バッハはモーツァルトとも違うのはなぜか?ラジオでバッハが流れると、急に主婦に後片付けの意欲が湧き起こり、箪笥を整理し出すのだと、「アドルノのテーゼ」が1985年のライプチッヒでの学会で証明されたようだ。要するに、バッハの音楽は、乱れた心を整えるだけでなくて、整理整頓の役に立つと言うのである。

一息入れる代わりに古いバッハとその音楽を、「誤まった音楽愛好」からや、遥かにそれ以上に「秩序や故郷への妄想」から護り、その中身を吟味したのが「アドルノのテーゼ」なのである。密接に言葉に関連した宗教的な内容の音楽的なメッセージは、口語化できるものではなくハーモニーやリズムやメロディーや対位法から直接的に放たれるものであり、バッハがなした様にはその後誰も出来ていない。

このような当然なことを綴っているのだが、そのこと自体がバッハの活動の世界であり芸術であったことは間違いないだろう。上の証明に戻れば、なぜ「大掃除」にはモーツァルトのエモーショナルな「グランパルティータ」ではいけないかは、至極当然であろう。

その対極としてこの記事では数学的な「フーガの技法」やクリスマス・カンタータに世俗カンタータをミキシングする抽象性を挙げているが、ここからは少し考え方が違う。

たとえば、先頃から愛聴しているバッハのミサ曲にアンチテーゼとして顕著に表れているのは、大作曲家バッハの普段の仕事内容は殆どルター派の音楽伝統を担ったような家元みたいなものであり、その枠組みが如何に厳格なものかは語るまでもないことだろう。そうした「抑制の芸術」でもあることが上のような技術的な秀逸をもたらしていることは間違いないが、そうした枠組みを越えた機会を得たりもしくはそこから逸脱した所で、啓蒙思想の洗礼を受けている今日の我々から見れば至極当然な「芸術」を展開していることである。そうしてこの時期にこそ最も多くの人がクラシック音楽に耳を傾けるのである。

バッハが、1723年か1724年のクリスマスミサのために作曲したというとても短かな二長調のサンクテゥスBWV238に限らず、特に晩年の作品にそうした闊達さや自由さが満ち溢れているのはそのような社会的な環境を反映しているのであろう。

そのような視点の差異から、もしくは新譜紹介の目的の歪さから、ここで紹介されているCDになんらかの食指を示すことは難しいかも知れない。ガーディナーとシャイーとエガールの「ブランデンブルク協奏曲」三種、ペライヤとシッフの「パルティータ」二種、ポルリーニの「平均率一巻」、「フーガの技法」二種、ツァッハーの「音楽の捧げもの」と、これを読んで注文が殺到するとは思わないのである。嘗てのカール・リヒターのそれのように、少なくともフォン・カラヤンの新録音のようにである。それはなぜか?繰り返す必要はないだろう。



参照:
Ein fester Halt für alle Menschen, Elenore Büning, FAZ vom 21.12.09
聖なるかな、待降節の調べ 2009-12-14 | 音
小馬鹿にした弁明の悲惨さ 2009-12-25 | マスメディア批評
ゲルネ+エマール[ベルク→シューマン]@東京オペラシティ(10/11) (庭は夏の日ざかり)
最初の一枚・最後の一枚 (時空を超えて Beyond Time and Space)
コメント (5)
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