Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

グッスリ二度寝をして気付く

2009-12-05 | 雑感
就寝前に風呂に浸かってぐっすりと眠った。朝眼が覚めて、買物にでも行こうかと思ったが、外は真っ暗で寒く先日の発病のこともありこれは危ないとの思いで、二度寝した。三時間ほどであるがこれまたぐっすりと眠った。どうも一週間の疲れがどっと出たらしい。公判ということでは半年以上の疲れである。

メールを開くと注文したCDが既に発送されたとある。全ての6CDsが手に入るようだ。リンクから自分の注文した商品のここ一年の一覧表を見た。前回注文したのは五月六日であるから事件の前である。なるほどそれ以降機会はあったのだが結局注文をしていない。

それどころか最後に注文したCDのなかにブリューメルのミサ曲をドミニク・ヴィスーが演奏したものがある。殆ど聞いた覚えがないので棚を探すがあり得るべき師匠ジョスカン・デュプレの曲の並びにもない。そこで、もしやと思ってプレーヤーの横を見ると、同時に注文した「モーゼとアロン」に後ろに隠れていた。二三度は皿に乗せたと思うのだが未だに腰を落ち着けて聞いていないことを思い出した。なるほどこの期間心理的に余裕がなかったものと思われる。しかし、シェーンベルクの方はCDの簡便さを活かして、十分に音出しをしていて大分見通しが効くようになっている。その差は面白い。

八百屋に行くとヴァンデルング仲間の夫婦に冬以来再会した。この期間の上のような話をしてまた新年に遭いましょうと別れた。自らはあまり気がつかない深層心理が様々な所に記録として表れているのはなかなか興味深いことである。

車のラジオが、ヤコブス指揮のオペラ「イドメネオ」の録音が素晴らしい出来だと紹介していたが、オペラの音楽的構造が見通せるようになると、カウンターがどうかだとかなんとかの話しには興味があまり湧かない。モーツァルトの終曲等の筆運びやアルバン・ベルクの作曲などを見通してその作曲家の審美眼に触れるとき、昨晩就寝前にショスタコーヴィッチの「マクベス夫人」などを聞くとどうしてもその創作者や社会の「美意識」の差異というものに関心を持たざるを得ない。
コメント (2)
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