橋本屋吉次郎電子日誌

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美濃路を歩く その21(足近~長良川)

2015-03-17 | 街道を歩く

美濃路を歩く旅、7日目の記録です。

前回のゴール地点である名鉄竹鼻線須賀駅から北西に歩き始めました。
 

【間の宿(あいのしゅく)】


このあたりは起宿と墨俣宿の中間にあたり、休息をする諸侯や貴人、旅人のための施設である間の宿が設けられていました。
なお、間の宿に休憩できるのは高貴なものに限られそれ以外は立場(たてば)とよばれる休憩所が割り当てられていました。


近くに立つ西方寺への道標
「親鸞聖人御旧跡」「寺田山渋谷院西方寺」「従是北六丁」と刻まれています。

【消えた美濃路】
このあたりは昭和30年代初めに行われた区画整理によって800mにわたって美濃路が消えてしまっています。
 

このあたりを美濃路が斜めに通っていたはずです。
 

しかし、沿道の自動車整備工場の名に残っていました。
 


【西方寺】


羽島市で最古のお寺で、なんと602(推古天皇10)年、善光寺如来が祀られたのが始まりです。
その後、612(推古天皇20)年、聖徳太子が七堂伽藍を建立して太子寺とし856(斉衡3)年に西方寺に改めました。
1235(文暦2年)年、関東からの帰途一時滞在した親鸞に教えを受け、天台宗から浄土真宗に改めたそうです。

 


本堂

春が近づいてきました。
 


【阿遅加(あじか)神社】


東征を終え、伊吹山の神を倒す途中、日本武尊(ヤマトタケル)は尾張国と美濃国の境の川にあるこのあたりで住民の歓待を受け休息をしました。
このとき出された食事と水がたいそうおいしく「味佳(あじか)」と言ったことがこの地の名となっているそうです。
なお、日本武尊は、再び伊吹へ向かい、伊勢国能褒野で死去。
日本武尊の御子稚武彦王は、深く悲しまれ鎮魂のため阿遅加神社を創建したと伝えられています。

ずいぶん高いところに本殿が置かれています。
 


境内から見た一の鳥居
参道が長く延びています。
おそらく、鳥居の前に美濃路が通っていたのでしょう。


阿遅加神社を過ぎると美濃路は再び現れます。
 

道沿いの桜のつぼみも少しずつ膨らんできているようです。
 

ここにも「親鸞聖人御旧跡」と刻まれた西方寺への道標がありました。
 

ここから美濃路は境川の堤防の上を通って西へ向かいます。
境川はかつて尾張国と美濃国との境界でした。
なんと戦国時代頃まではこのあたりまでが尾張だったのです。
 

したがって、羽島の毛織物も「尾州産地」のブランドで売られてます。
 

街道の名残を感じさせる建物があるようなないような。
 

 


【東小熊の一里塚】






のどかな道ですが街道だっただけあってバス停もあります。

北に曲がって、境川を越えます。

 

ほどなく、また西に向かって今度は長良川を越えます。

 

長良川の向こうは墨俣です。


(続きます)


コメント (11)
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