橋本屋吉次郎電子日誌

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美濃路を歩く その17(萩原橋~高木の一里塚)

2015-02-28 | 街道を歩く

萩原宿の北端で、美濃路は再度西に曲がります。
 

建物も現代風のものが多くなってきました。
 

日光川にかかる萩原橋
 


2005年まではこの川を渡ると尾西市でした(現在は一宮市に編入)。

街道沿いの街並みもだんだん変わり、
 

昔の名残が感じられなくなってきました。
 

日光川を渡って2本目の道で北に曲がります。


のこぎり屋根発見!
このあたりは毛織物業が盛んな土地で、その工場(といっても家内工業・零細企業が多い)が多く見られます。


【考子佐吾平遭難遺跡】
 

萩原宿問屋の馬子であった佐吾平は盲目の母を養い、孝子の評判が高かった。
ところが天保年間、明石藩主が江戸への参勤途中、暴れ馬を取り押さえようと行列の前を横切った佐吾平は、先駆の武士に無礼打ちになってしまいました。
人々は彼の死を悲しみ碑を建てて供養しました。


 

なお、これを聞いた尾張藩は、以後、明石藩が尾張藩領を通行するときは夜間に葬式の装いをしてのみの往来を許したそうです。



名神高速道路を横切ります。

これ何かわかりますか?
 

常滑焼の焼酎瓶を石垣の代わりに使われています。
私が子どもの頃は尾張西部でもよく見られましたが、最近はめずらしくなってしまいました。

美濃路は徐々に北から西へまがり、


西萩原あたりからはまっすぐ北西に向かいます。


ところどころで見かける幟
尾張大國霊神社(国府宮)で行われる儺追神事、通称はだか祭に際して、西尾張の各地区持ち回りで大鏡餅が奉納されます。
なんと50俵取り(約4トン)という巨大なもので、これを奉納するというのは地区の誉れなのです。


【富田の一里塚】
 


本来、一里塚は街道の両側にあるものですが、そろって残っているものは全国的に見てもとても珍しいです。


西側


東側


美濃路歩きも後半戦に突入しました。


道標


「右おこし」
次は起宿です。


「左つしま」
巡検街道を経て、津島神社へ向かう道を示しているのでしょう。


隣接して駐車できるスペース、さらにベンチ・水飲み場・トイレが設けられ、現在でも一里塚としての役割を果たしているのはすばらしいです。
あとはwi-fiのフリースポットがあれば完璧か?


【駒塚道分岐】
美濃路から斜め左手に道が分岐しています。
道標には「左駒塚道 舩渡ヘ五丁 慶応三年」と刻まれています。
駒塚道は、尾張藩家老石河佐渡守が、領地の駒塚 (岐阜県羽島郡)から渡し舟で木曽川を渡り、名古屋城へ 出仕するためつくった街道だそうです。
 


【中嶋邸】
道標を過ぎ、右手に庄屋だった中嶋邸の塀が続きます。
1865(慶応元) 年、長州征討の為、14代将軍徳川家茂は総勢18,000人の軍勢を 引きつれ京に向かう途中、起宿に宿泊しましたが、
このとき幕閣の老中阿部豊後守は、この中嶋邸に宿泊したそうです。
 

瓦にも「中嶋」の文字があります。
 

今は使われていないのでしょうか。
傷んでいました。
加えて、落書されて痛々しいです。
 


(続きます)


コメント (4)
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