朝は、早朝を除いて、晴れ間より雲の多い、晴れ、そのうちに、本曇りとなって、少しだけ雨が降った。その雨にぴったりと出会うことが出来たのは、幸運か。このところ、微妙な天候の変化があって、しかしまだ春という感じでもなく、かえって変動の激しさが、体の少子を狂わせる気もする。そうゆう意味で、春と言えるかも知れない。もっとも春が本格的になると、花粉も結構に飛ぶし、春の嵐の手ごわさというのもわかっている。木の芽時はもっと先である。そうゆうときのほうが本格的な危機感が生じるが、これはこれで、そのときに考えればいいか。
微妙な変動を示す天気で、先週は雪が降った。この雪はしかしさほどひどくはなく、その日のうちに溶け切らないときもあったが、こうゆうものは列島のどの位置に自分はいるかによっても違う。また同じような場所にいるようで、かなりにピンポイントな違いが感じられたりもする。この辺りの自然の変化の微妙さは、人の感覚よりもずっと敏感というか、法則に貫かれていて、それを理解するだけのものを持ち合わせていない。これは、観天望気のほうが有効なものがあって、
またその経験も今は昔の感じがあるが、ずっと昔の人のほうが有効にその情報を利用し、また戦略として用いていたようだ。もっとも、それだけ危険な目にもあっていると、人の命も縮まるだろう。これは嫌で、なんとなくだか、なにかのモニタを見ているほうが身の危険はない。でも、その分他のもので緊張もする。いかにして、気候を予想しまたそれから逃れるかは、部分的にしろ、大変である。
朝方の晴れ間というのもまことに微妙なものがあった。これも、体の痛みと一緒になって思い出される。こうゆうことを気にするのもまずはあまりない。この時間だけ夜は晴れて欲しい。そう思う人は少ないはずだ。夜に、雨が降り、朝になると止んで、すっきりした気分で起きること、これが理想に近い、ものであろう。私も、普段は夜はただただ眠るためにあって、また安穏とした時間が形式的にも過ごせるようで、その間、雨が降っていようと、風が吹いていようとあまりに気にしない。適度な雨は歓迎されるし、これまたこの辺りでは春が来た、あるいは春が近い証拠にもなる。
果たしで、この後、結構な雪が降るのか2月も残り少ない時間を前にして、このまま小雪で終わってくれればと願わないではいられない。しかし、雪の必要性もわかっていて、また冬のスポーツにこの雪は必要である。また、雪の降り続く日というものがいつ来るかわからないことも、これもたしかなことであるから、そのときに慌てないためにも、やはり適度な雪は必要なのである。もしも、温暖化の反対の状態、灼熱の地獄の正反対のもの、「氷河期」というものが来たなら、いったいどうなるのか。こうゆうことも、せいぜい名前くらいは、記憶に残しておいてもいいことだろう。
小さな春の息吹のようなものを感じながら、まだまだ寒いときを過ごしていると、安心というものはない。これでいいのかという疑問が常にある。これとはまったく関係はないが、歩くときにポケットにミニカメさんを入れる習慣がなくなって、このままだとそのミニカメさんも活躍の場がなくなるような気もして、都合がよければそれを持つことにした。まだしかし、大して時間はたっていない。一旦止めてしまうとなかなかもとには戻れないもので、その反応の遅さというか、ゆっくりなものに躊躇する。でも、散歩だからそれでいいのだと言い聞かせる。
手に馴染まないものもある。この感覚はだんだんと歳を重ねると強くする。これまでは、ツルッと滑ることはなかった。吸盤のように吸い付いていたものが何の抵抗も無くするり落ちてゆく。恐ろしい出来事である。手がツルツルしている。ペンを持っていても摩擦がなくなってつるり転がる。嫌なことだ。これが起こる。
他にはどうだろうか。いつもならぶつかることなく通っていたドアの取っ手に衣服が引っかかる。また、飛び出している箪笥の角に頭をぶつける。当たることのなかった、目の上の棚にぶつかる頭。つるり滑って、靴に着地せず、タイルの、つまりは地面といってもいいところに足がゆく。
なんだか、話しがおかしな方向へゆくようだ。一つは老化であり一つは、それに反することをやらないといけない、というものだが、はたしてどうなるか。これも、人の振動の一つで、冷や汗も出る。なかなか、安寧の境地には達することはない。いつもの、半分ぼやき、半分は「やけ」のようなことを書いて、おしまいになった。
春の色は黄色で始まるようだが、レンギョウの花もまだだし、またサンシュユはかなり先のこと。クロッカスの黄色が今はいい。半分開いて、という状態。白いものも出てくるはずだが。
オオイヌノフグリも、半分は開いて、半分は閉じているようである。
紅白の梅。ますは白いほうから。ほどほどに咲いている。小雨が降っている。1枚目から、すべて小雨の状態のものです。
大きく撮れるところというと、なぜか同じ場所を選んでいるようである。
きのうも出た、紅梅の、南を向いての、つまり逆光になる方向から。
小雨だと、特に問題はないようで、また梅の花のしっとりとした感じも出ている。
反対から、太陽のある方向からのもの。ほとんど反対方向からのものと変わらないものが出来上がった。
小雨のお天気だと、押しなべて中庸というか、ちょうどいい具合のものがあるようで、しかしそれゆえ、インパクトもないという感じもする。
微妙な変動を示す天気で、先週は雪が降った。この雪はしかしさほどひどくはなく、その日のうちに溶け切らないときもあったが、こうゆうものは列島のどの位置に自分はいるかによっても違う。また同じような場所にいるようで、かなりにピンポイントな違いが感じられたりもする。この辺りの自然の変化の微妙さは、人の感覚よりもずっと敏感というか、法則に貫かれていて、それを理解するだけのものを持ち合わせていない。これは、観天望気のほうが有効なものがあって、
またその経験も今は昔の感じがあるが、ずっと昔の人のほうが有効にその情報を利用し、また戦略として用いていたようだ。もっとも、それだけ危険な目にもあっていると、人の命も縮まるだろう。これは嫌で、なんとなくだか、なにかのモニタを見ているほうが身の危険はない。でも、その分他のもので緊張もする。いかにして、気候を予想しまたそれから逃れるかは、部分的にしろ、大変である。
朝方の晴れ間というのもまことに微妙なものがあった。これも、体の痛みと一緒になって思い出される。こうゆうことを気にするのもまずはあまりない。この時間だけ夜は晴れて欲しい。そう思う人は少ないはずだ。夜に、雨が降り、朝になると止んで、すっきりした気分で起きること、これが理想に近い、ものであろう。私も、普段は夜はただただ眠るためにあって、また安穏とした時間が形式的にも過ごせるようで、その間、雨が降っていようと、風が吹いていようとあまりに気にしない。適度な雨は歓迎されるし、これまたこの辺りでは春が来た、あるいは春が近い証拠にもなる。
果たしで、この後、結構な雪が降るのか2月も残り少ない時間を前にして、このまま小雪で終わってくれればと願わないではいられない。しかし、雪の必要性もわかっていて、また冬のスポーツにこの雪は必要である。また、雪の降り続く日というものがいつ来るかわからないことも、これもたしかなことであるから、そのときに慌てないためにも、やはり適度な雪は必要なのである。もしも、温暖化の反対の状態、灼熱の地獄の正反対のもの、「氷河期」というものが来たなら、いったいどうなるのか。こうゆうことも、せいぜい名前くらいは、記憶に残しておいてもいいことだろう。
小さな春の息吹のようなものを感じながら、まだまだ寒いときを過ごしていると、安心というものはない。これでいいのかという疑問が常にある。これとはまったく関係はないが、歩くときにポケットにミニカメさんを入れる習慣がなくなって、このままだとそのミニカメさんも活躍の場がなくなるような気もして、都合がよければそれを持つことにした。まだしかし、大して時間はたっていない。一旦止めてしまうとなかなかもとには戻れないもので、その反応の遅さというか、ゆっくりなものに躊躇する。でも、散歩だからそれでいいのだと言い聞かせる。
手に馴染まないものもある。この感覚はだんだんと歳を重ねると強くする。これまでは、ツルッと滑ることはなかった。吸盤のように吸い付いていたものが何の抵抗も無くするり落ちてゆく。恐ろしい出来事である。手がツルツルしている。ペンを持っていても摩擦がなくなってつるり転がる。嫌なことだ。これが起こる。
他にはどうだろうか。いつもならぶつかることなく通っていたドアの取っ手に衣服が引っかかる。また、飛び出している箪笥の角に頭をぶつける。当たることのなかった、目の上の棚にぶつかる頭。つるり滑って、靴に着地せず、タイルの、つまりは地面といってもいいところに足がゆく。
なんだか、話しがおかしな方向へゆくようだ。一つは老化であり一つは、それに反することをやらないといけない、というものだが、はたしてどうなるか。これも、人の振動の一つで、冷や汗も出る。なかなか、安寧の境地には達することはない。いつもの、半分ぼやき、半分は「やけ」のようなことを書いて、おしまいになった。
春の色は黄色で始まるようだが、レンギョウの花もまだだし、またサンシュユはかなり先のこと。クロッカスの黄色が今はいい。半分開いて、という状態。白いものも出てくるはずだが。
オオイヌノフグリも、半分は開いて、半分は閉じているようである。
紅白の梅。ますは白いほうから。ほどほどに咲いている。小雨が降っている。1枚目から、すべて小雨の状態のものです。
大きく撮れるところというと、なぜか同じ場所を選んでいるようである。
きのうも出た、紅梅の、南を向いての、つまり逆光になる方向から。
小雨だと、特に問題はないようで、また梅の花のしっとりとした感じも出ている。
反対から、太陽のある方向からのもの。ほとんど反対方向からのものと変わらないものが出来上がった。
小雨のお天気だと、押しなべて中庸というか、ちょうどいい具合のものがあるようで、しかしそれゆえ、インパクトもないという感じもする。