光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

雑草探し

2009-02-09 19:04:48 | 散策
  雪は今はないが、すると、田んぼとかその他、空き地にまた野の道に草が生える。生えていて、今頃また花を咲かせる。苔もあって、コンクリートが栄養分になるのか、結構に多い。コンクリートとアスファルトはかなり違って、コンクリートの上だと苔はある。アスファルトだと、あるところとないところがある。あるものは、その脇の方にコンクリートがある。違いははっきりしていて、アスファルトの淵にコンクリートがあるところに苔はあるというわけ。そうゆう風に見える。
  
  花も色々だが、珍しいものがありそうで、ない。花がある花ばかりではないだろうが、花はあったほうがいい。その方が目に付くし、また目を引く。お山の方にゆくと、これまた人里から離れるから、見かけない花は、また草は、木々は多いだろうが、そうゆうところにゆく機会もないと、どうにかこの辺り、周辺で、なにかを見つけないといけなく、これはこれで大変である。でも、よおおく見るとどのくらいの植物があるのか、まったくわからない。まずは皆緑に見えて、およそ区別も付きにくい。こちらのほうの目も、こうゆう年齢になったから花やら雑草を眺めるわけで、もう少し時代が若いと、そんなものを見ることはない。これは事実で、
   
  20歳代から、エビネに興味がありましてというと、これはなかなかいない。いないはずだが、過去も遡ると、そうゆう方に会った。その人はなんとカメさんもやる、エビネも好きで、野の野草も大好きで、こちらが知らないことを滔滔と述べた。さらにアユも釣るという、何という御仁かと思うが若い。若いのにエビネがと来るので、まったく脱帽してしまう。こうゆう人とお友達になるといいことずくめのようだが、もちろん実際にはそうはならない。それで、気を入れ替えて何かをやるかというと、これまたそうではない。

  野の花というものも、なかなかに見かけないもので、それなら、春だと梅、それにボケに、さらにはサンシュユに、ロウバイにレンギョウという、誰でも知っているようなものが目に入ってくる。しかし、さすがにフクジュソウはというと、これはない。そうゆうものは、図鑑で見るしかやはりない。低地でもいいが、野を歩くことはなかなかない。せいぜい、どこか花見にいくというときの、その道でチラッとあちらこちらを見るのが精一杯で、さらに低い山歩きだと、登るのと下るので、あとはエネルギと水の補給で精一杯で、さらには最後の方になると、バスに乗り遅れないか心配にもなってくる。ちょうど、膝の外側が痛くなり始める。なんだか地獄の下り坂。こうなると
  山歩きで、あまり見かけないという珍しい植物も目には入らない。低山植物もそのまま取り残されてしまう。植物にとっては、これはいいようだ。植物園にある、そうゆう植物を見てもらって、それが自然に繁茂しているところは知られない方がいい。で、大体山歩きをすると、って昔話だが休憩で半ば呆然としている。それで、撮ったものはというと大体ぼけていて、当時オートフォーカスもまたモータドライブもなかったころが懐かしい。

  それにしても、雑草も種の競争の原理が働くのか、なかなかこれは珍しいというものは、見つからない。もうそんな珍しいものはいい。珍しくなくても見かけない植物に会いたいなど思って、そこいらを歩いたり、あるいは散歩の途中にチラチラよそ見をするが、大体において、見かけないものはなさそうである。
  少しあるいはものすごく昔だと、用水はなかった。小川というものがあって、しかしこれも考えてみると、恐らく人の手が入っているのではないか、まったくの自然に出来た川がいつの時代まであったか、小川といえども人がその方向を変えたことも考えられるし、川と川とをつないだりもしたのだろう。(この辺りは、歴史の教科書を読み直すといいのかも知れない)。そうでないと、昔の水田というものも存在しないことになる。キレイに整理された今のものではなく、昔の田んぼは曲線の美しさを持っていて、また色々な木々が、あるいは建物があって、それは自然というより、人の手の入った感じの穏やかな光景があったようだ。

  そうゆう光景も昭和のものであるから、それにしても今とは違いすぎる。夏に光るホタルがいたりというのが、また笹舟を流したとか、そうゆうときのものだが、虫も豊富だと植物の種も豊富だったに違いない。この逆の言い方のほうが、もっともらしい。

  空き地には、せいぜいたくさんの雑草が生えている。ここには、低い山にあるような草はもちろんない。また、植物園にあるような、ちょっと珍しい野の花もない。なんだか残念である。梅の花は少しだけ咲いている。これはめでたい。それから空き地に目をやると、雪の下にあったものがまだ枯れたような感じで残っているだけ。そこにはもう昔あった植物は生えてこない?。どこかからか、知らない植物の種が飛んでこないか、夢想するが、これは果しておかしいかなー。




  目の前に、ようやくツバキが。これは、もとの画像をそのまま縮小しても大丈夫だったが、その機会がなくて切り出してみた。




  日が当たる、そうゆう垣に目をやると赤い色が美しい。カメさんも目がくらんだ。どうせならもっとぼけて欲しかったが。




  雑草とは関係がなくなってゆく。やりにくいというか、人見知りするスイセン。




  柿の木のへたが残るのは鳥が食べた証拠のようだが、柿の木も昔はもっとたくさんあった。




  最後には松が出た。松枯れはひどいようで、ここにもあったがその松も今はない。この松の木は、久しぶりに見た、きれいなもの。

硬調な、青空。

2009-02-09 16:32:20 | 散策
  暖かなときもあると、今日はやけに空気が冷たい
  など思うときもあって、でも、気温を後からたしかめると
  さほど違いはない。
  だんだんと寒さと暖かさの感覚がおかしくなっているのではないか、
  という感じにもなる。

  きょうは、朝は氷点下、その後は雲の多い空だが、
  きのうの気温というのも、さほど高くないことを知ると
  きょうがやけに寒く感じられる不思議が、結構印象的。

  あとは花粉症。目のショボツキ感がひどい、あまり長くモニタを
  見ないようにしているが、それでもつらいときがる。
  文字の大きさに不満なく、モニタもほどほどの大きさ。
  でも、つらい。これが目の問題なのか、花粉症なのか
  どっちにしてもいいことではないが。

  きょうも、太陽のある風景。
  2月8日、きのうの青空の様子。硬調な感じがあった。




  新鮮というか、空気が澄んでいるのか、また太陽の輝きが強すぎるのか。




  壮大だなー、放射が全体に広がっている。




  濃い青い色が印象的。




  夕方と書きそうになって、そうでもない時間である。朝と同じような
  光景が広がる。




  白い雲が蒸発しそうな感じがある。




  ようやく夕方に近い時間になる。やはり朝と同じ感じがある。
  日の出と書いてもおかしくはない。
  
  この後も、太陽と空の色は変化を続けるが、それはまた。
  ホワイトバランスが、夕焼けのころから「予想外」のものに
  なってしまって、残念なところもあるが。 

うす曇りの、月曜日

2009-02-09 06:47:06 | 散策
  朝のお天気、晴れのようで、薄い雲が全体にある。先ほどまで、夏ミカンのような、月が出ていたが、これが大きくて、おいしそうに見えた。曇り空で、まわりにハロが出ている。起きてしばらくすると、寒さが身にしみる。アメダスの6時の気温、マイナスの0.2℃、氷点下である。気圧は1021.2hPa、湿度は67%、もう少しあったほうがいい。室温、6℃。これが普通だ。

  きのうは窓の内側だと、いっとき18℃くらいあった。それに比べると、12℃ほど下がっていてこれは寒く感じる。灯油ヒータの温度センサは、3℃だった。もう少し暖かいか、と思ったが、すぐに真冬に逆戻り。ブルブル、寒さで震える。しかも外は氷点下。きょうが完全に晴れていたら、もっと寒くて、大いに震えた。きょうがうす曇りでよかった。
  
  新聞っと思って、そこに何もないことに気付くとほぼ同時に、きのうは、別刷りのTV・ラジオ欄があったことをすぐに思い出した。新聞は休み、それから外に出たが、雲が多いこと、思ったより雲は多い。その中で明るい星がちらちら、それを見てすぐに建物の中に戻る。バタバタ、という感じでいかない。ドタドタという感じで時間が進んで、やかんから湯気が出る。水の量が少なかったようだ。パック入りのお茶を、やかんに入れて、しばらくシュポシュポやるが、同じものを長く飲み続けると、何となくだが、口の中にそのお茶の妙な味が、特に朝に、残るようになったが、しかし、他のに変えるとそれがなくなった。でも、次は、またその妙な味の残るほうだ。

  もう十分明るいが、外は恐らく0℃前後。すでに、北アルプスの山々が白くなって見えていて、その上が少しだけ、紅色に染まっている。わずかな朝焼けがある。今日はこれから天気が悪くなるのかどうか、これも天気情報を聴いていたと思ったがもう忘れている。