空の明るさがあり、日も出ている。きのうは日が出ている時間はなかったような感じがしたが、これが間違い。ちゃんと夕方、その明るい、まあるい、光の玉があった。これなどは、写真を見て思い出すことになる。でも、きのうの夜は、星空はなかった。
土曜日はこのところずっと雨か雪というお天気で、これも何かの巡り合わせというか、しょうがないことで、その逆というのも当然ある。忘れているだけであって、それで印象が深い。今日は晴れだが、しかし午後から風が強く、この風は海に近いほうだともっと強いだろう。住んでいる場所によっても、またその風の強さは違う。今風が、また花粉を運んでいる。これはもういいか。
ごろごろする時間は終わった。風の子でもないけれど、外に出てお日様に当たらないとというときでもないが、今日くらいは多少は日に当たったほうがよさそうだ。目からくる明るさが、体の動きにも影響を与えるだろう。多少は弱っている体だが、もっと傷んでいるかも知れないが、それはそのときで、歩くのは日常のもっとも普通の運動だから、これには特に問題はない。それよりも注意力というか、回りの変化にちゃんと対応できるような機敏さはこれは要求される。車が来る。体をどけるスペースのあるところに急ぐ。信号を渡るときは、左右だけではなく、前後も見る。後ろから来ている場合がある。こうゆうものを判断できないと、危なっかしい散歩になる。時代から、のんびり感は大体なくなってしまった。
もっとも、ミニカメさんを持つこと自体も、何かにせっつかれているようで、ほめられたことではないだろう。この辺りは苦しいいいわけが続く。
いつもの道を行く。時も変化するが、道も変わり、地面も変わって、また建物も変わり、人も変わる。時代は否応なく変化を要求する。で、そのことに気付くことなく、あるとき、ふとこんなことがあっていいのか、自分の年齢を知って驚く。いつの世も、ウラシマさんはいる。いやーな感じが誰にでもあるが、しかし生きている以上、若返ることはなく、また長く生きれば生きるほど、老化の長い階段を歩かないといけない。なんとも背反するものがある。それに、気を取られすぎてもだめ。またそのことを考えなさすぎるのもだめ。いつか、そのときは来る。しかし、この覚悟は、出来ません。こんなことを考えるのを止めるために、寒風下の青空散歩はある。
オオイヌノフグリが、さらにまたその花弁を増やしている。驚くべき生命力で、この花は疲れを知らない。小さな青い花をいくつも咲かせて、しかし枯れることはないようだ。特に、種を播かなくても、いつでもどこにでも咲き誇っている。もっとも、よりたくさんの、オオイヌノフグリの咲く場所がある。大体が、日当たりがいいところ。もっともなことだが、この花がなぜこれだけ辺りに謳歌するのか、それもよくはわからない。
ここを見ていると、梅の花もあるが、今年はここの梅はまだチラホラ、そこに赤い、小さな虫がいた。テントウムシで、ナナホシテントウのようである。チョコマカよく動く。これを見つけると、ようやく虫の世界も春が来たと思う。もっとも、テントウだと、1月でも暖かいと、また晴れると、その辺りにいるのが普通。今日は、もう一匹もすぐに見つかった。でも、何を食べているのか。で、花の葉っぱの写真というと、何も葉っぱ以外は写っていなくそうに見えて、実は小さな虫のようなものは、よく見かける。すると、アリマキもいても不思議ではない。テントウの、チョコマカと動く姿を見て少し元気になり、遠回りもして帰ってきた。
でも、なんだか、目が痒い。それに鼻もやはりグズグズ。もう花粉のことは、書かないのだった。でも、やっぱり帰ってくると、いろいろなゴミというか、塵というか、そうゆうものにもみくちゃにもされているという感じは強い。若いときはこんなもんは、まったくなかった。最近は、もう地球温暖化は決まったこととして、その対策が日常になりつつあるが、昔の公害といったものはさておいて、地球環境はきれいかというのは、なんだかあまり言われることはなくなった。温暖化も、この汚れと大いに関係があるのだろう。温度だけではなく、環境全体に注意を払わないといけないが、
それとこれとは、少しあるいは大いに論点が、違うかも知れない。きれいな、というものの本質はむつかしい。
空に向かって咲くオオイヌノフグリだが、その先の空も明るい。
中央少し右に、黒いのと赤いのの丸いものがあるが、これがナナホシテントウで、しかしこのときは気が付いていない。
テントウムシの動きは早い。これを追うように、カメさんも動かす。下に見える白い中央が黒い小さな点が、ナナホシテントウ。
それより、やはり、オオイヌノフグリの青と、空の青のほうが、よかったようだ。爽快である。
順序でゆくと、次はアネモネ。この紫というか青紫の花は、まだ小さい。
タンポポも今は探さないとなかなかない。ようやくあった三兄弟のうちの、真ん中。
その脇に、冠毛もある。少しほっとする時間である。
土曜日はこのところずっと雨か雪というお天気で、これも何かの巡り合わせというか、しょうがないことで、その逆というのも当然ある。忘れているだけであって、それで印象が深い。今日は晴れだが、しかし午後から風が強く、この風は海に近いほうだともっと強いだろう。住んでいる場所によっても、またその風の強さは違う。今風が、また花粉を運んでいる。これはもういいか。
ごろごろする時間は終わった。風の子でもないけれど、外に出てお日様に当たらないとというときでもないが、今日くらいは多少は日に当たったほうがよさそうだ。目からくる明るさが、体の動きにも影響を与えるだろう。多少は弱っている体だが、もっと傷んでいるかも知れないが、それはそのときで、歩くのは日常のもっとも普通の運動だから、これには特に問題はない。それよりも注意力というか、回りの変化にちゃんと対応できるような機敏さはこれは要求される。車が来る。体をどけるスペースのあるところに急ぐ。信号を渡るときは、左右だけではなく、前後も見る。後ろから来ている場合がある。こうゆうものを判断できないと、危なっかしい散歩になる。時代から、のんびり感は大体なくなってしまった。
もっとも、ミニカメさんを持つこと自体も、何かにせっつかれているようで、ほめられたことではないだろう。この辺りは苦しいいいわけが続く。
いつもの道を行く。時も変化するが、道も変わり、地面も変わって、また建物も変わり、人も変わる。時代は否応なく変化を要求する。で、そのことに気付くことなく、あるとき、ふとこんなことがあっていいのか、自分の年齢を知って驚く。いつの世も、ウラシマさんはいる。いやーな感じが誰にでもあるが、しかし生きている以上、若返ることはなく、また長く生きれば生きるほど、老化の長い階段を歩かないといけない。なんとも背反するものがある。それに、気を取られすぎてもだめ。またそのことを考えなさすぎるのもだめ。いつか、そのときは来る。しかし、この覚悟は、出来ません。こんなことを考えるのを止めるために、寒風下の青空散歩はある。
オオイヌノフグリが、さらにまたその花弁を増やしている。驚くべき生命力で、この花は疲れを知らない。小さな青い花をいくつも咲かせて、しかし枯れることはないようだ。特に、種を播かなくても、いつでもどこにでも咲き誇っている。もっとも、よりたくさんの、オオイヌノフグリの咲く場所がある。大体が、日当たりがいいところ。もっともなことだが、この花がなぜこれだけ辺りに謳歌するのか、それもよくはわからない。
ここを見ていると、梅の花もあるが、今年はここの梅はまだチラホラ、そこに赤い、小さな虫がいた。テントウムシで、ナナホシテントウのようである。チョコマカよく動く。これを見つけると、ようやく虫の世界も春が来たと思う。もっとも、テントウだと、1月でも暖かいと、また晴れると、その辺りにいるのが普通。今日は、もう一匹もすぐに見つかった。でも、何を食べているのか。で、花の葉っぱの写真というと、何も葉っぱ以外は写っていなくそうに見えて、実は小さな虫のようなものは、よく見かける。すると、アリマキもいても不思議ではない。テントウの、チョコマカと動く姿を見て少し元気になり、遠回りもして帰ってきた。
でも、なんだか、目が痒い。それに鼻もやはりグズグズ。もう花粉のことは、書かないのだった。でも、やっぱり帰ってくると、いろいろなゴミというか、塵というか、そうゆうものにもみくちゃにもされているという感じは強い。若いときはこんなもんは、まったくなかった。最近は、もう地球温暖化は決まったこととして、その対策が日常になりつつあるが、昔の公害といったものはさておいて、地球環境はきれいかというのは、なんだかあまり言われることはなくなった。温暖化も、この汚れと大いに関係があるのだろう。温度だけではなく、環境全体に注意を払わないといけないが、
それとこれとは、少しあるいは大いに論点が、違うかも知れない。きれいな、というものの本質はむつかしい。
空に向かって咲くオオイヌノフグリだが、その先の空も明るい。
中央少し右に、黒いのと赤いのの丸いものがあるが、これがナナホシテントウで、しかしこのときは気が付いていない。
テントウムシの動きは早い。これを追うように、カメさんも動かす。下に見える白い中央が黒い小さな点が、ナナホシテントウ。
それより、やはり、オオイヌノフグリの青と、空の青のほうが、よかったようだ。爽快である。
順序でゆくと、次はアネモネ。この紫というか青紫の花は、まだ小さい。
タンポポも今は探さないとなかなかない。ようやくあった三兄弟のうちの、真ん中。
その脇に、冠毛もある。少しほっとする時間である。