光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

振り子の振れかた

2009-01-23 18:56:00 | 散策
  朝は雨、小雨で、はっきりした雨、その後に小小雨。あとは晴れて来た。思いもよらないことのようだが、これは本当で、晴れ。暖か。その後に時間は進んだ。時計の振り子は振れていて、止まらず、これも予定どおり、雨風になった。この変化の早いこと。春が来て、夏が来て、冬が来たという感じ。

  心配事が多い。自分自身のこともずいぶんと心配で、この先のことを思うと、頭が痛い。この先のことは誰にもわからないが、たぶんこの先のことを心配している。時計は動いている。だから、変化があるわけだが、どう転ぶかわからない。

  去年の秋も遅く、自分で挟みで、自分の手を切ってしまった。これはむろん、手を切る目的ではなく、ちゃんと紙なり、あるいは不必要なものがあって、それをゴミとして出すため切っていたが、うっかりして刃の先が指に当たった。この危険性というのも変だが、薬なども、10個単位で包装されていて、一応はさみを入れないと一個一個に分解も出来ず、これに「さっ」とはさみを入れるが、力の配分を間違うと、手のほうが刃にいきそうで、こんなこともうまく出来ないのかと嫌になってくる。
  きのうは、私と血のつながりのある、ある人が、指を切った。で、血が止まらない。そう簡単に止まらないが、なんとか包帯をきつく巻いて止まった。私の時も、そう簡単には、血は止まらなかったが、絆創膏のようなもので、きつく止めてそれで血は止まった。ある意味当たり前だが、その先には血がいかないから、あまりいい気分ではない。傷口がくっ付いたときは、ほっとしたが、その後ももとにもどるまで時間はかかった。二度と同じようなことはしまいと思ったのは当然である。
  で、ある人の血は止まった。このまま少なくとも明日までじっとしておかないと、と言っておいたが、しばらくして、また様子を見にいったわけでもないが、なんと、もう包帯をはずしている。これ以上は書くこともないが、なんとか止まっているようで、ドキっともして、またホッともした。でも、この先にまだ出来事はあった。

  なんだか先週のサムケみたいなものは、先週で終わって、一息というか、何とか風邪にはならず助かったが、こんどは予想外の、出血でびくびくした。これが自分のことならなんとかなるが、
  でも、これもまー特になんともなっていないようで、今これを書いている。少し落ち着いた時間を過ごせるかというと、そうはいかない。なんだかこの先には、もうドキドキと、頭痛の世界しか待っていないような気もしている。右なら右、左なら左に傾いたままの、振り子を真ん中まで戻して、さらにもう少しその反対方向へとやっておきたい気分になる。でも
  いずれ、また自分の都合の悪い、そうゆう方向へ、振り子は振れるだろう。定常状態というのは生きている限りなかなか現われないような気がする。

  気象の状況も、結構振り子のような感じで変化している。晴れがあって、雨があって、高い気温があれば、寒いときがある。かなり長い周期の振り子もあって、それが四季だろう。
  心の変動も大きい。昔は何に揺れていたのか、考えるが、果たして生き延びていけるかというのが、学生のころに思っていたことだが、そのとおりのことになった。生き物はなぜ生きていけるか、というのは結構に面白いもので、この極一部分は、学校で勉強できたような気がする。もっともその知的レベルは今と昔ではまったくに違う。それも机上のもので、また、単純な反応の一部だった。

  血が出たというのもいろいろの段階があって、これにどう対処するかむつかしい。血が出ないように心がけるが、イザというときの対処が出来ない。また、切り傷くらいで何をガタガタいっているかという考え方も成り立つ。大体昔から、注射は怖くはないが、血は見ないほうがいいという性格だった。だから、ちょいと血が出てもかなりにうろたえる。考え方も様々だが、
  うちには、大した包帯もなく、また消毒薬もなく、はっきり言えば救急箱というものもなかった。これを買うかどうか悩ましいところだが、あっさりと包帯を解かれてもなー、と内心で揺れるものは大きい。




  白梅の、あるときの見え方というか、レンズの結像としかいいようがない。人の目とは、はっきりと違う。




  同じようなものだが、これは紅梅。赤い花が咲く。これもこれまでの結果からそうゆうことになる。少しだけ蕾は赤い。




  謎の木である。枝振りから何かわかるかも知れない。




  脈絡がないが、これはオオイヌノフグリの花が閉じているところ。




  花粉症の方にとってはおなじみ。でも、この木の花粉に反応するかどうかは、これはわからない。

たしかにきょうは暖かい

2009-01-23 16:03:05 | 散策
  朝の天気予報は、見ていたが、気温が上がるということだけが
  記憶にあった。やがて、それも忘れるが、なかなか忘れられない
  ことも多い。

  それで、しばらくすると、何かの拍子に外に出たが
  暖かいではないか。風もまだない。朝は雲が多く、これはもうこのまま
  と思っていたが、暖かくて、晴れて来た。
  おかしな天気だ。
  というより、心配事もだんだんと増えるようで
  気も滅入る。お天気のことなどもすっ飛んでしまう。
  それで、晴れて来て、少しだけ気が緩んだ。

  今はどうか、もう雨、風も強く、これからは雨か雪。
  そうゆうこと。




  これは、明るすぎた。




  しばらくの間、雪山が見えていたがそれよりも、雲の位置と形のほうが
  魅力的なようである。こんな天気に、こんな雲。




  不思議と、このカエデの、枯れた葉っぱは落ちない。なぜか。




  木の下のオウレン。




  明るい日に輝く、オウレンの葉。

ポットのお湯

2009-01-23 06:47:41 | 散策
  朝のお天気、小雨。悩みの雨が降ったようだが、暖か。暖かいから気が緩むのかも知れない。いらないことを書いた。小雨で暖かな朝。風もほとんどない。木々からぽとぽと落ちる雨の音。アメダスの6時の気温、8.1℃、気圧は、1009.2hPa、室温、10℃。

  外の気温が8℃もある。これにまずは驚く。そっちのほうで驚かないといけない。
  朝は、いつもポットのお茶を沸かす。大体時間は決まっていて、牛乳のチンと、パンのチンと、リンゴを切って食べている、時間が同じで、これとほぼ同時に、湯気が出て来る。あとは、なかのパックをよく揉んで、エキスを出す。これをやらないと、あまり色が出ない。昔は1つだった。今は2つ使う。けちはやめた。
  それで、これをポットに移す。このポットも昔は新しかったに違いない。

  ポットというと、もらい物という概念がある。その他、ポットの登場する時間というのはあまりなかった。お茶を飲むということがそう頻頻にあったわけではない。
  時間はすべてを変化させて、いつのまにかポットが当たり前で、でもそのポッとにお茶を入れる仕事が自分にまわってくると、その中が汚れていることがわかる。茶渋なら心配がないが、カビのようなものもある。最もカビの中にも役立つものもあるし、同様の現象はまな板にもある。
 
  どう考えても、お茶は熱湯。夏は、なにか暑い布でもないと持てないし、入れることも難儀する。今も安全のためには、厚手の布でとってを持つのがいい。ときにこれを省略する。大丈夫。
  喉のためでもないが、このお茶をすする。そん回数が多くなる。すると、妙なものだが、トイレにもいきたくなる。寒いときのお茶で、特に落ちはなかった。