光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

時間を遡る

2009-01-29 18:42:35 | 散策
  「タイムトンネル」というタイトルの、TVドラマがあったが、いよいよ危なそうになると、そこで番組は終了した。ここには、歴史は本当かどうかの描写もあるが、本人がそこにいて、歴史を変えるとすると後々困るので、この番組はいいところで終わった。その最後のほうで、どうなったかもう覚えていないが、はっぴエンドで、今に戻ってきたか、どうか。しかし、現在の考えでは、過去にも未来にも、人はいけないということになって、これで一安心も出来る。

  どうして自分という人間が現われたのかが一番の不思議だが、どうして、ここのうちに生まれて、よそのうちでなかったか、というのも大いに不思議なもので、誰がこれを決めたかというと、今のところはご先祖様ということになる。皆、ご先祖になれるかというと、そうでもないようで、それにはそれなりの方法が残されているようである。
  自分がいるのは、これは両親がいる、あるいはいたからで、そのことを繰り返すと、ずいぶんとたくさんの人がいないといけないが、これにはその不思議を解決出来るものがあって、つまりは多くは兄弟であるとすると、親の数の心配も少しだけ減少する。それでも、親には親がいてと思うところである。

  この反対があって、原始の人がまずは親二人であっても、その子供がいて順調にその数は増えるかというと、これは色々問題が多い。初期問題というのはいずれの分野においても悩ましいものの一つで、これが現在と矛盾するようだ。
  単純に、二つが四つになり、四つが八つになる、という感じで、人の数が増えていったとして、これで、かなりの数の人が増えると、そろそろ親には親がいて、その親にはまた親がいて、これは無限に親がいないといけないということと、あるところで接点を持ちそうである。無限でなければよく、また人の数は、恐らく無限数いることはない。どのような人の増え方が起こっていて、自分がどの辺りに今いるのかというのは、最初の辺りを適当に端折ってみて、そのある数に達したときに、その人を親の親の・・・と思えば、何とか自分の親は、という問題は何となくだが、納得出来るのではないか。

  自分の親に、自分のご先祖様のことを聞くが、これもある年齢に達するとどうでもよくなる。せいぜい、自分が生きていた時代に、祖父祖母のその前のことを聞くくらいで、それ以上のことも、親のほうも知らない。その血のつながりと、戸籍上のつながりには不連続があるようで、完全に不連続かというと、もう少し遡ると同じ血を少しだけ引いているというようなことにもなる。たぶん、あまり行き来のなかった時代というのは、そうゆうことも起こりうるし、またまったくの別のところからというものもある。

  自分という人間はどの辺りから人間となったのか、というのは大きな興味深い問題だが、はたして自分はまともな人間かというものが、これが生物学的なものと異なる分野で、ためされることもあるが、そうゆうところだと、人の中に色々な人もいて、こうゆう人になるにはどうしたらいいのか、という問題も起きる。この問題のほうが重要であって、生きてゆくときは、素質より生きる力みたいのが重要な気がするが、時代が時代だけに、これからは、生き物としての力強さと、またこの世をすり抜けてゆく策と知恵を身に付けるのも、もっとも重要なものに思えてくる。
  これもかなり原始なものがあって、しかしサイコロを振るような感じもあるから、ここは確率問題も重要にもなってくる。これをしかしやっていて、成功するかというと、そうでもないのは、今の経済問題などで明らかになっているような気がするが、学問と実際とは大いに違って、しかしそれも予想の範囲となると、
  この先というものも、予想もたて、サイコロも振り、それで諦めも肝心ということになる。なんだかお先が真っ暗な感じもしてきたが、また明日太陽も登ることであろうから、そのときになると生きている実感も味わえるかも知れず、悲観にくれているわけにはゆかない。

  朝は非常に寒かった。よって、自分がなぜここにいるのかという問題もどこかにいってしまっていたようで、ただただ震えて起きた。きのうと同じくらい寒く、よって外の星の様子は、たぶん窓から見た。外に出ても見たような気がするが、はっきりしない。





  今頃であるが、きのう夕時なって見え始めた、細い月。感度も最高に上げる。




  早い時間だと、凍っているかのような、瓦がくる。この後に、じわじわと光り輝く、氷が現われる。




  休耕中かの、田んぼのすべてに、霜が降りている。これの感触はこの画像では出ない。




  少し手前の枯れ草だと、このとおり霜の花が咲いている。




  霜続きだと、この常緑樹の葉っぱの淵も凍っている。少し離れて見ることはあるが、実物が目の前にある。




  枯れアジサイの、同じく、ひっそりと下りている、霜。

  この間およそ、5分くらいか、ゴミ出しも寒かったが、この後も寒くて震えて、ヒータの前に座り込んだ。やってられない寒さ。

霜柱

2009-01-29 16:27:34 | 散策
  朝はとっても寒かったが、その後はほどほどに
  気温は上がった。体感温度でそう思ったから、間違いない。
  また建物の中も、結構気温があって、ひさしぶリの暖かさ。
  だから、鼻が詰まった感じにもなって、クズクズいっている。
  暖かい鍋など急いで食べると、鼻水が出るのと大体同じではないか。

  霜はあるが、これは今日もたくさんあった、霜柱は
  ないと思っていた。先入観というものは恐ろしい。  
  たぶんこれまでにも、霜柱は小さいがあったのではないか。
  きょうはなぜか、その霜柱のようなものを偶然に見つけた。

  だが、その霜柱は、小さいのである。よく見ないとわからない。
  さらに、地面から外に飛び出ているとは思えないようなものもある。
  霜柱を見つけるのは、偶然と、また根気と、寒さに耐える
  気力がいるようだ。
 




  非常に小さい霜柱。肉眼だと、1cmあるかないかの大きさで、うっかりというか
  運が悪いと見過ごしてしまう。かなりに寄って、マクロレンズを使う。目から
  カメラも離している。




  体の安定性は非常に悪い。地面のちょい上にあるから、体を折っているし
  無理してカメラをさらに前に突き出す。一つ間違うと、ギックリ腰。
  お腹が邪魔だなー。




  氷らしい感じ。光の量はかなり足らず、ぶれているかも知れず、
  氷の感じがするものを選んだ。




  地面と同じ高さにある。泥水の状態と近いかも知れない。それが凍った。
  すべてそうだが、日の出からかなり時間がたっているから、溶けている
  ものも多いと思う。




  霜柱というより、泥の氷のほうが近いかも。

  霜柱が出来ていることはわかった。でも美しい霜柱を撮るのは
  かなりむつかしそう。

きょうも快晴の朝

2009-01-29 06:49:39 | 散策
  朝のお天気、快晴。夜もずっと晴れていて、窓もすぐに結露。風もほとんどなく、穏やかといえば、穏やか。気温の低い高いもわかりずらいが、アメダスの6時の気温、マイナス0.7℃、氷点下の気温。気圧は1027.8hPa、積雪は、0cm。室温、5℃、きのうの余熱がある。

  朝ははっきりと明るくなってきている、TVでもお天気情報の前に各地の様子が映し出されるが、東の地域だともうお昼のように明るい。本当かと思って、カーテンを開ける。少しだけ、ここも明るく、パンを齧り終わって、PCの前に戻るころには、東に見える北アルプスの稜線もくっきりである。星もあっという間に消えてしまう。
  朝の景色は美しいが、寒い。

  鳥というと、目立つのが、ヒヨドリと、トビで、トビはどんな寒い日でも悠然と空に舞い上がる。恐らく、0℃くらいのお天気でも風が吹くと、それに向かって羽を少しだけ動かして、あとはグライダーのように滑空する。寒くないか、いつもトビに聞く。答えは、その飛翔を見ればゆうこともない。
  うるさい鳥というと、ヒヨドリもうるさいが、オナガや、モズもうるさいもので、しかし今はその声もこの寒さの中に減衰してゆく。キジバトも寒さの中にいるようで、独特の鳴き声もしない。

  少し暖かくなると、ヒヨドリはレースをやる、一匹の、一羽のヒヨドリが、目の前をものすごいスピードで飛んでゆく。何かに追われているようだが、それはもう一羽のヒヨドリ。窓のすぐ前を飛んでいて、目に入りそうな錯覚を覚える。
  夕刻になると、ときどきもう暗い木々の枝にこの鳥たちが止まるのが様子として感じられる。この寒い夜も、木の枝に止まってじっとしているのだろう。
  カラスは最近は見ない。ずっと街の方にいるのかも知れない。それから、寒スズメも、最近は見ない。見ないということはその辺りを歩いていないということと大体同じのようだ。

  すっかり明るくなっている。今日も晴れで、瓦は凍っている。