北風である。風が北から吹くのは、晴れているときに多いが、今日は雨で、北風。それもきのうの夜からずっと続いている。雨あめ、風風で、よく吹いている。その割に、部屋の温度は、下がっていないから、これはまずはアメダスの観測値を見ると低くても7℃はあって8℃台のときもある。体感だと、これは味わえないくらい雨風で、そんなことは出来ないが、もう少し弱い雨のときの感じでいうと、たしかに雪が降る、そうゆう気配はない。もしかしたら、北風で、春というのも嘘とは言えないかも。北風はしかし怖い。これは海の荒れ方からもわかる。また大体において、北風は晴れの印象だが、これが強いと、木が倒れたりもする。
1月も終わりだけど、もしかしてこうして2月も終わってくれればと思う。一番寒いときが終わる。これにはしかし、2月の28日間を耐えないといけない。ことしは、普通の年で、1年は365日。去年はたしか「うるう年」で、このときだけ、5年日記のところに29という字が印字されている。へーと思うものがある。うるう秒というのもある。ことしがそうだった気もするが、こんな微妙な変更も必要な時間の敏感さには驚くものがある。4年に一回のうるう年と、いつ来るか知れない、うるう秒のときの感覚というのはどうだろうか。あー少しだけ長生き出来たと思うのだろうか。
新年になると、2月号が来る。これはPR誌で、いつもはぎりぎりに来る、そうゆうもののほうが早く来て、これの一部だけを読んでいる。本の広告というか、自身による採点のようなものが書かれている。それくらいの自信がないと本も書けない。こうゆうのはどうか、本は後になればなるほど、評価がきびしくなるように思うが、これもそれだけの本を読んでいないと、評価の「ひょ」の字も出来ない。多くは、PR誌の広告で、おしまいとなる。それ以外に、ここから単行本が出るが、これを買うかというと買わない。後でどのような変化があったか、などはあまりに気にしない。その中味をまた見直すことも少なく、ただPR誌といえお金を出して買っているから、最低一回は読みたいが、これもやらなくなった。なんでかなー。
本を買うのは、大体得をしていると思う。お金の印刷も大変だが、本を作るのはもっと大変で、交換した価値はある。これも写真が多いとだめというか、まー図鑑とかは別だが、大体は字が多いほうが、あとあと後悔もしない気がする。その点でいうと、PR誌は、写真は少なく文字がほとんどで、これで、マルマル円は安い。でも、この古本を買う人はいない。「これくた」は、多いはずで、私もある期間だけだがすべてそろって持っている。この多くがもはや見返されることのない運命になる。ただ、燃やしたりも出来ず、溜まる一方である。
PR誌というくらいだから、宣伝も大切である。宣伝文を書く人はこれも本の続きと思っている。それ以外の、宣伝集というのがPR誌の最後に来るが、これを見ていると、なんだかやりきれなくなる。多すぎるのである。こんな細かい文字で、こんなたくさんの本を並べたところで、すべてを見ることも買うことも出来ない。ぱらっと見ておしまい。
これに比べると、昔の文庫本には、タイトルと著者名だけの、広告が、何ページかあって、これは昔の文庫本ほど懐かしく思えるし、また消え去った人というものもよくわかる。値段も100円前後というのも多く、これを今も見ているが、100円の本を今も大事にとってあって、読み直すから、こうゆう本はたぶん幸せだろう。そうゆう運命にあった本をこれからも手にとって読み直すだろう。
ということは、売れる本というか、それから読める本は残ってゆくということだが、しかし、最近の夏休み、名作100選というと知らないもんが半分以上あって時代も変わったもんだと思う。買おうと思っても買えない本もあれば、絶版も多い。あれあれということになる。
時代によって、そのときのブームは変わるようだ。それが周期的に舞い戻るときもあるようで、これも読まれ方が違う。PR誌は要るか要らないか、これはわからないが、時代に乗り遅れた本というのが、いままた脚光を浴びるのは、いかにも皮肉っぽいが、時代は繰り返して、周期的なのかも知れない。
北風を浴びていると、どうにもこうにもやり切れない気分になるが、ほんの少しだけPR誌を見ていて、またまたブルブル寒気みたいなものにも襲われるから、この本も今も売れて、また50年、100年後にも再び読まれるときが来るのか、雨中白い空を見つつ、思うことは少ない。
雪も晴れると、空の青さが戻ってくる。これも1月の雪の特徴か。
東の空の、夕時に近い時間、空の青さが出る。
青空とユラユラゆれる太陽があって、
雪の落ちた、今は枝しかない、大木が青空とともにある。
この空にだけ、青色はなく、電球のような、あるいは夏ミカンのような、そうゆう感傷的な色があった。
1月も終わりだけど、もしかしてこうして2月も終わってくれればと思う。一番寒いときが終わる。これにはしかし、2月の28日間を耐えないといけない。ことしは、普通の年で、1年は365日。去年はたしか「うるう年」で、このときだけ、5年日記のところに29という字が印字されている。へーと思うものがある。うるう秒というのもある。ことしがそうだった気もするが、こんな微妙な変更も必要な時間の敏感さには驚くものがある。4年に一回のうるう年と、いつ来るか知れない、うるう秒のときの感覚というのはどうだろうか。あー少しだけ長生き出来たと思うのだろうか。
新年になると、2月号が来る。これはPR誌で、いつもはぎりぎりに来る、そうゆうもののほうが早く来て、これの一部だけを読んでいる。本の広告というか、自身による採点のようなものが書かれている。それくらいの自信がないと本も書けない。こうゆうのはどうか、本は後になればなるほど、評価がきびしくなるように思うが、これもそれだけの本を読んでいないと、評価の「ひょ」の字も出来ない。多くは、PR誌の広告で、おしまいとなる。それ以外に、ここから単行本が出るが、これを買うかというと買わない。後でどのような変化があったか、などはあまりに気にしない。その中味をまた見直すことも少なく、ただPR誌といえお金を出して買っているから、最低一回は読みたいが、これもやらなくなった。なんでかなー。
本を買うのは、大体得をしていると思う。お金の印刷も大変だが、本を作るのはもっと大変で、交換した価値はある。これも写真が多いとだめというか、まー図鑑とかは別だが、大体は字が多いほうが、あとあと後悔もしない気がする。その点でいうと、PR誌は、写真は少なく文字がほとんどで、これで、マルマル円は安い。でも、この古本を買う人はいない。「これくた」は、多いはずで、私もある期間だけだがすべてそろって持っている。この多くがもはや見返されることのない運命になる。ただ、燃やしたりも出来ず、溜まる一方である。
PR誌というくらいだから、宣伝も大切である。宣伝文を書く人はこれも本の続きと思っている。それ以外の、宣伝集というのがPR誌の最後に来るが、これを見ていると、なんだかやりきれなくなる。多すぎるのである。こんな細かい文字で、こんなたくさんの本を並べたところで、すべてを見ることも買うことも出来ない。ぱらっと見ておしまい。
これに比べると、昔の文庫本には、タイトルと著者名だけの、広告が、何ページかあって、これは昔の文庫本ほど懐かしく思えるし、また消え去った人というものもよくわかる。値段も100円前後というのも多く、これを今も見ているが、100円の本を今も大事にとってあって、読み直すから、こうゆう本はたぶん幸せだろう。そうゆう運命にあった本をこれからも手にとって読み直すだろう。
ということは、売れる本というか、それから読める本は残ってゆくということだが、しかし、最近の夏休み、名作100選というと知らないもんが半分以上あって時代も変わったもんだと思う。買おうと思っても買えない本もあれば、絶版も多い。あれあれということになる。
時代によって、そのときのブームは変わるようだ。それが周期的に舞い戻るときもあるようで、これも読まれ方が違う。PR誌は要るか要らないか、これはわからないが、時代に乗り遅れた本というのが、いままた脚光を浴びるのは、いかにも皮肉っぽいが、時代は繰り返して、周期的なのかも知れない。
北風を浴びていると、どうにもこうにもやり切れない気分になるが、ほんの少しだけPR誌を見ていて、またまたブルブル寒気みたいなものにも襲われるから、この本も今も売れて、また50年、100年後にも再び読まれるときが来るのか、雨中白い空を見つつ、思うことは少ない。
雪も晴れると、空の青さが戻ってくる。これも1月の雪の特徴か。
東の空の、夕時に近い時間、空の青さが出る。
青空とユラユラゆれる太陽があって、
雪の落ちた、今は枝しかない、大木が青空とともにある。
この空にだけ、青色はなく、電球のような、あるいは夏ミカンのような、そうゆう感傷的な色があった。