きょうは、暖かいと思えるときもあったが、その後は、やはり大体に冷えてくる。悲喜こもごもを味あう感じで終始したということだが、ま、早くいうとこれで終わってしまう。もう少し付け加えると、晴れのお天気、子供の声が今も聞こえそうな、でも真っ暗になっているのは当然で、南西の空高く、金星が輝いている。孤高の星という感じがあるが、金星そのものが、震える寒さの惑星かというと、そうではなくて、灼熱の地獄ということになっている。わからんものである。
明るいことと、またその明りが有効に使えるかというと、これは話しが違う。明るすぎる、まぶしくてという妙な問題が起こる。ブラインドみたいのが欲しくなる。これは昔のカレンダで代用している。ここには、昔のカレンダは多い。でも、これは大体がゴミと化すもので、その中でも少し本物の写真というものがある。この印刷された、風景は美しいが、まずは一枚目、というか、0月というか、表紙というか、それを破ることもないし、またうまくめくれる構造には出来ていない。よって、そのままの状態で、いくつかぶら下がっている。
書いたように、ブラインドのものもある。色が変わっているかも知れない。その他、はっきりとした、例えば学校の「美術の教科書」に載るような、大家の書かれた、日本画の複製もあるが、これも、ある時期のみで、それはあるところに押し込んである。カレンダのいいところは、薄っすらしていて、しまうのにはあまり場所を取らないこと。でも、それは忘れられる運命にあって、また二度と開かれることのないものである。あまりに、きれいすぎるというのも、使うのがもったいないという気にさせて、そのままお蔵入りになる。これがお金だったら、どうだろうか。
明るいのもありがたいものだが、ときにまぶしく、また、ほどほどの明るさというのも、むつかしいものだと思う。こうゆう状態になっていることは、しかし嬉しいこと、ありがたいことに変わりはない。これに、文句をいうのはおかしい。滅多にない。
少し書いたが、外の温度は体感で上がっていなく思える。ガラスの部屋の中だと、そのようなことは想像も付かない。また、回りがコンクリートという、人工の照明の中にいても、外の現実はわからない。ビルでいうと、大きな左右に開くドアがあってそれから回転ドアがあって、順次気温が下がってゆくことがわかる、そうゆう感じだ。もうそのとき、コートを忘れたは遅すぎて、コートがあってちょうどいい。ビル街にはビル風が吹く。この寒さも、北風同様大したものだ。あっという間に、飛んでゆくものがある。窓から手を出して、観点望気はしなかった。
さっさと歩いた。今日までという、冬休み中の子供の姿を見る。一人の子供が、死角から走って来て、もしかしたらぶつかったかも知れないが、大丈夫だった。ときに、たまにありそうだ。コンクリートの塀の向こうは見えない。そこから、子供が走ってくることもあって、ぶつかりそうにもなる。年齢が問題だな。機敏な動きが出来なくなる。出来なくなるというと、「何もかも」と言いたいが、いやでもやらなければいけないことがあって、なるほど、こうして老化の階段を登ってゆく。下がってゆくという表現でも、結果は同じ。
このままでは、ちょっといけない、つぶれるようで、つぶれないためには、引っ張リ合う力と、反発する力の、バランスがとれていることが必要。このために、少しはこの北風の中を、もう少し歩いたほうがいい。時計を持ってその時間を見ながら。
早い話しが、寒かったが、少し重めのカメさんを持って、ただ当てがなかった。どこに何かがあるが、今の時期はわからない。なにもないというところもあるようだが、ここには何かがある。だからむつかしい、勘でいって、帰って来た。
ずいぶんと長くなった。「ただ、寒風の中、明るいが、その北風もそのうちに慣れると、衣類の下に汗がという状態にもなってきて」、で、もうこの辺りで、書くこともなくなってしまった。
晴天が続いて、若干、引き出しの余裕が出来た。そう思う。で、しばらくするとそれは間違いだとわかる。この繰り返し。いくつかの、明るめの風景。
真っ赤なはだの、サザンカがある。雨のしずくが少し残っている。
複雑な茎と葉の構造を持つ、でも花はというとタンポポに見える、いつも出る花。これが多くあって、でも花以外というとなかなか出ない。
緑色した、ある植物、これは草よりは「木」であって、杉に似ているが、垣の一部。で、あるものの先が、このように、茶色い小さなラグビーボールのようになる。米粒以下の大きさ。この中に、花粉が入っていそうな気がする。
今頃に多いのが、スズメの中でも、寒スズメで、その姿がきょうは一番印象が強かった。
かなり遠くからでも、ピイピイ結構大きめの声で鳴くから、ああ、スズメがいるなというのはわかる。
道の端により、知らん顔をして通り過ぎる。それで、さっと振り向くと、一斉に寒スズメは飛び立つ。ズズメ以外に、柿の実の、恐らく鳥に食べられた痕、というのが同じような大きさで写っている。
少し離れている。別の木で、逃げたスズメもいそうである。ある程度距離があって、他の画像も見ていると、残っているのはそのままのようだ。
明るいことと、またその明りが有効に使えるかというと、これは話しが違う。明るすぎる、まぶしくてという妙な問題が起こる。ブラインドみたいのが欲しくなる。これは昔のカレンダで代用している。ここには、昔のカレンダは多い。でも、これは大体がゴミと化すもので、その中でも少し本物の写真というものがある。この印刷された、風景は美しいが、まずは一枚目、というか、0月というか、表紙というか、それを破ることもないし、またうまくめくれる構造には出来ていない。よって、そのままの状態で、いくつかぶら下がっている。
書いたように、ブラインドのものもある。色が変わっているかも知れない。その他、はっきりとした、例えば学校の「美術の教科書」に載るような、大家の書かれた、日本画の複製もあるが、これも、ある時期のみで、それはあるところに押し込んである。カレンダのいいところは、薄っすらしていて、しまうのにはあまり場所を取らないこと。でも、それは忘れられる運命にあって、また二度と開かれることのないものである。あまりに、きれいすぎるというのも、使うのがもったいないという気にさせて、そのままお蔵入りになる。これがお金だったら、どうだろうか。
明るいのもありがたいものだが、ときにまぶしく、また、ほどほどの明るさというのも、むつかしいものだと思う。こうゆう状態になっていることは、しかし嬉しいこと、ありがたいことに変わりはない。これに、文句をいうのはおかしい。滅多にない。
少し書いたが、外の温度は体感で上がっていなく思える。ガラスの部屋の中だと、そのようなことは想像も付かない。また、回りがコンクリートという、人工の照明の中にいても、外の現実はわからない。ビルでいうと、大きな左右に開くドアがあってそれから回転ドアがあって、順次気温が下がってゆくことがわかる、そうゆう感じだ。もうそのとき、コートを忘れたは遅すぎて、コートがあってちょうどいい。ビル街にはビル風が吹く。この寒さも、北風同様大したものだ。あっという間に、飛んでゆくものがある。窓から手を出して、観点望気はしなかった。
さっさと歩いた。今日までという、冬休み中の子供の姿を見る。一人の子供が、死角から走って来て、もしかしたらぶつかったかも知れないが、大丈夫だった。ときに、たまにありそうだ。コンクリートの塀の向こうは見えない。そこから、子供が走ってくることもあって、ぶつかりそうにもなる。年齢が問題だな。機敏な動きが出来なくなる。出来なくなるというと、「何もかも」と言いたいが、いやでもやらなければいけないことがあって、なるほど、こうして老化の階段を登ってゆく。下がってゆくという表現でも、結果は同じ。
このままでは、ちょっといけない、つぶれるようで、つぶれないためには、引っ張リ合う力と、反発する力の、バランスがとれていることが必要。このために、少しはこの北風の中を、もう少し歩いたほうがいい。時計を持ってその時間を見ながら。
早い話しが、寒かったが、少し重めのカメさんを持って、ただ当てがなかった。どこに何かがあるが、今の時期はわからない。なにもないというところもあるようだが、ここには何かがある。だからむつかしい、勘でいって、帰って来た。
ずいぶんと長くなった。「ただ、寒風の中、明るいが、その北風もそのうちに慣れると、衣類の下に汗がという状態にもなってきて」、で、もうこの辺りで、書くこともなくなってしまった。
晴天が続いて、若干、引き出しの余裕が出来た。そう思う。で、しばらくするとそれは間違いだとわかる。この繰り返し。いくつかの、明るめの風景。
真っ赤なはだの、サザンカがある。雨のしずくが少し残っている。
複雑な茎と葉の構造を持つ、でも花はというとタンポポに見える、いつも出る花。これが多くあって、でも花以外というとなかなか出ない。
緑色した、ある植物、これは草よりは「木」であって、杉に似ているが、垣の一部。で、あるものの先が、このように、茶色い小さなラグビーボールのようになる。米粒以下の大きさ。この中に、花粉が入っていそうな気がする。
今頃に多いのが、スズメの中でも、寒スズメで、その姿がきょうは一番印象が強かった。
かなり遠くからでも、ピイピイ結構大きめの声で鳴くから、ああ、スズメがいるなというのはわかる。
道の端により、知らん顔をして通り過ぎる。それで、さっと振り向くと、一斉に寒スズメは飛び立つ。ズズメ以外に、柿の実の、恐らく鳥に食べられた痕、というのが同じような大きさで写っている。
少し離れている。別の木で、逃げたスズメもいそうである。ある程度距離があって、他の画像も見ていると、残っているのはそのままのようだ。