名古屋から発するブログつぶて・凡人のひとりごと

身の回り、世間のできごとをを日記風に記す(紙つぶてならぬブログつぶて)。

沖縄県 日本復帰52年

2024-05-15 16:20:47 | Weblog
2024.5.15(水)
 沖縄県は15日、1972年の日本復帰から52年を迎えた。復帰に際し、県民は「基地のない平和な島」の実現を求めたが、国土面積の0,6%しかない県内に今も在日米軍専用施設の約7割が集中、県民からは懸念の声が上がっている。
 政府は、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を巡り、デニー知事が拒んだ辺野古沖での軟弱地盤改良工事の設計変更承認を代執行し、今年1月に工事に着工した。完成は2030年代半ば以降にずれ込むという。
 住民は、15日朝、約30人が座り込みをし「52年前から基地に虐げられている状況は変わらない」と声を上げた。
 米軍基地の重い負担が続く一方、政府は中国の海岸進出などを踏まえ、九州・沖縄の防衛力を強化する自衛隊の「南西シフト」を強化した。
 こうした動きに国民はもっと、敏感に反応すべきである。

なごや平和の日の記念式典

2024-05-15 09:19:23 | Weblog
2024.5.15
 太平洋戦争中の名古屋空襲の犠牲者を悼むため、名古屋市が制定した「なごや平和の日」の14日、名古屋公会堂で記念式典が行われた。
 式典には空襲体験者や市の関係者ら100人が参加した。河村市長はあいさつで、名古屋空襲で左目を失明しながら国の補償から外された民間の空襲被害者の救済運動に取り組んだ故杉山千佐子さんの思いを紹介。「制定は椙山さんの願いの一つだった。戦争をリアリズムの立場で考えられるように、子どもたちの気持ちを社会に向けなければいけない」と述べた。
 二度の名古屋空襲を体験した春日井市の森下規矩夫さん(86)は家を焼かれ、疎開先で食糧不足の苦しい生活を送った日々や、爆撃から逃れる途中で家族とはぐれた経験などを話した。「戦争中は、思ったことを自由に話せなかった。終戦で解放され、体が軽くなった。」と平和を実感した日を語った。また、東邦高校からは4人の生徒が登壇。2014年から、犠牲者を慰霊する日の制定を求めて活動してきた。
 4人は式典の最後に「情熱と決意をもって行動し、未来の世代に平和な地球を引き継ぐために、私たちの声を沈黙させてはならないと強く思います」と平和合同宣言を読み上げた。西岡さんは「高校生が戦争について語り継ぎ、、考え、行動していくことが大事だと改めて感じた」、柴崎さんは「平和のバトンを世界中の人につなぎ続けていきたい」と話した。
 筆者も戦争の末期、名古屋空襲で家を焼かれ、一家で岐阜の農家に引っ越しをして、 一年生で小学校に入学した経験を持つ。こんな経験は二度と次代の子どもたちにさせてはならない。