17 一滴の血の重さ
野獣が吠えるような声。ベランダから近所にきこえるように今日も母が声をはりあげている。
――わかいものが、イジメルよ。おなかすいたよ。肉、食べたいよ。
ミチコが――あれほどいわなくてもいいのに、と控えめにいった。ぼくにはどうするここともできなかった。夫の看病とじぶんの病苦との狭間にあって、すでに母はこころもやんでいた。
――ぼくらの結婚を遅延させ、生まれてくるはずだったぼくらの初めての子をだめにしてしまったのは、父と母なんだからな。あの人たちは、どれだけぼくらがかれらを養うために犠牲をはらったか、わかってもらいたい。
――いいのよ。わたしのことだったら……わたしがイジワルシテ肉をかわなかったのでないことを、あなたがしっていてくれれば、それでいいの。家のなかでいがみ合うなんてやりきれないわ。
――なにかが、変なのだ。きょうもしばらくぶりで、朝からおかしかった。ミチコが悲鳴をあげたからだ。
――わたしはいつも、叫んでいるわ。あなたの救いをもとめて、呼びかけている。でも、あなたにはきこえていない。
――いつか、きっと……こうした生活も終わる。悪い夢からぬけだせるときがくるだろう。
――そういうことではないの。あなたにはわかっていない。
――いつもいっしょに仕事している。いつもミチコのそばにいる。
――だから、いっても……むだね。わたしの声がきこえていないのよ。
ぼくには確かに理解できなかった。ミチコだけに感じられる怖れとは、なにか?
――さあね。
ぼくは恥じらいをふくんだ声で低く応える。あまり開き直った妻の質問に白らけて、そう信じて生きている、という言葉をのみこんだ。
沈黙。そして夜がくる。寝室。真夜中。ぼくの体の上に重圧がかかる。それはキャシャナ妻のものではない。肥大しつづける母のものではないかという恐怖が喉もと集る。肉を食べられなかったことでまだ怨んでいるのだ。ぼくは叫び声を上げていた。
――どうかしたの。夢よ。悪夢だわ。
妻の手がぼくの胸をゆすっている。ぼくは眠りの外にはいだすことができない。その手が、ぼくのクビをしめにきた母のものと誤ってはらいのける。
――どうしたの、夢よ。夢をみているのよ。怖い夢を……妻がささやいている。
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