田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

人間もどきの終焉6  麻屋与志夫

2019-10-29 08:55:29 | 純文学

16 どこにも住めない

 冷えきった夜気のなかに、取りこむのを忘れた糸が庭に干してある。
 庭の片隅には古くなった洗濯機が放置されている。使用不能となった洗濯機の排水ホースは死んだ像の鼻のようにだらりと弛緩していた。干からびてひび割れていた。
 ぼくらが結婚する前には、小型モーターの回転音と水の撹拌音をたてていた。
 ホースのさきからは、華やいだ泡々が、もみあい、はじけながら奔流していたのに。
 ふきだした無数の泡。
 際限なくふきだす白い泡は下水口まで流れた。
 ぼくは独りだった。コンクリートのU字溝を、泡ふく蟹の群れとなって流れていく。汚れた水がナマグサイにおいをたてて黒い穴のかなたに消えていく。
 ぼくは独りだった。そのころ、母はすでに胆のう炎を患っていた。
 だから、一家の主婦の労働のすべてがぼくのものだった。
 家、長く受け継がれてきた「麻」を商う家を守りぬかなければならなかった。もっとも、合成繊維の侵入でそのころでさえ、麻の商いはへるばかりだった。
 広すぎる家屋。広すぎる庭。三人だけの家族だった。
 そこに光が射した。ミチコ嫁にきた。桃代が生まれた。
 
 ぼくは回想からさめた。
 
 夜の底で干してあった糸の束を物置にとりこんだ。
 
 父がふじに退院した。その夜。湯船につかっている父の下腹部につけられた人工肛門から、小さな泡が二つ水面にうかびあがった。このとき、ぼくはおろかにも、まったくなにもしらなかった。なにもしらされていなかった。
 ――みんなで、おれをかたわにした。こんなところからウンコなんかでるものか。
 だが、父の顔にはふしぎと、憎しみの表情はなかった。
 凋落する肉体をいとおしむ、寂しい微笑があった。
 伏し目なのではっきりとはわからない。苦笑いをしていた。
 男根はふやけて精彩を欠き、古くなったホースのようだった。
 死んだ象の鼻のようにだらりとしていた。
 人工肛門だけが異様に生々しい色で、ピンクのバラの蕾のようだった。
 ぼくよりも大きかった体はやせほそってしまった。脂肪はすっかりなくなり、ハラのタブタブしていた肉は消えてしまった。皺がよってこわれアコーデオンのようだ。
 父の後で風呂につかると湯水が大量に洗い場にあふれた。それが父とぼくとの差だ。父の体が平面的になって湯船に浮かんでいるようだったのを思いだして、ぼくは目がしらが熱くなった。
 暴力をふるわれた思いでしかないとしても、オヤジは父であることにはかわりはない。
 
 ぼくはタオルを顔にあてた。

 ぼくは父になにもいえなくなっていた。

 やせ細った父を思い、ぼくは、母をおしのけて父の部屋に侵入しようとしたことを後悔していた。だれが筆記具を隠したにしろ、そんなことはどうでもいいではないか。
 
 ぼくの記憶のなかにこの経験をたくわえておけば、書けるようになったときに、書けばいいのだ。


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