OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

直方の跨線橋 1

2024年08月09日 | 鉄道
直方の跨線橋について調べた。3回連載の一回目。

 直方市の石炭記念館に行く陸橋を見に行った。この跨線橋は、直方駅の改札を出て、筑豊本線(および平成筑豊鉄道伊田線)の東側を通って約600メートル南に行ったところにあり、線路の向こう側(西側)にある多賀神社と直方市石炭記念館への経路になっている。

1 転車台転用の跨線橋 2024.7.30 以下も

 跨線橋の下には4本の線路があって西側の3本は筑豊本線、東端の1本は平成筑豊鉄道が単線として使っている。もとは筑豊本線の複々線として使われていたが、現在の筑豊本線は全体として複線で、不要になった線路は撤去されているところが多い。ここは駅に近いことから留置線となっているようだ。神社と石炭記念館は低い丘の上にあって、跨線橋の西側は同じ高さの道路につながっているが、東側は約8メートルの標高差があるから途中で折れ曲がる石段で登っている。

2 神社の鳥居を伴う東側

 端の側面(緑色の部分)は、一見して転車台の形態であるから、これがよく知られている「転車台転用の跨線橋」である。端としての名称は「多賀第3跨線人道橋」というらしい。この緑色の部分は、おそらく下路ガーダー橋の形の転車台の側面を転用したのだろう。これについて記したあるブログでは「両側の側面をつなぐ底の横材は細すぎるので、転車台全部の転用ではなく側面だけを持ってきたのではないか」とされていた。幅も広すぎるとしている。
 石炭記念館の職員のIさんに、いくつかの点を教えていただいた。
1 この転車台が元使われていた場所はわからない。
2 直方駅には昔3つの転車台があって、そのうちの一つは現存する。
3 跨線橋はかつて改造されたことがある。
4 跨線橋の設置時期はわからない。
 ということだったが、帰ってからネットで調べると、それに関して幾つかのことがわかった。順に記すが、十分な調査ができなかったので今後訂正を要する可能性が高い。
 まず、2 の直方駅の3基の転車台の位置から調べた。古い航空写真に写っている転車台を探して、現在の地理院地図に当てはめると、三つの転車台の位置がわかった。一つは現存するもので駅の北方約900メートルにある。もちろん現在の衛星写真にもあるし、イベントにも使われるようだ。18メートルの長さの上路式のもので、形式はG3 という。これは現存する以上、跨線橋とは無関係である。もう一つは駅舎の西口ちかくにあったもので、北側と南側の3、または4本の線路を繋いでいた。ブログによるとこの転車台の型式は「すて20」というもの。最後の一つはその少し南の、現在の車両工場らしい大きな建物のところに昔あった扇形庫の要にあったもので、型式は「でて20−1」である。

3 直方駅付近の線路と航空写真・地形図

 転車台の機能は、一つが車両の前後の向きを変えることで、蒸気機関車のような前後の使い方の違う車両を運用するのには不可欠の施設である。北側の二つの転車台はその目的に使われたに違いない。一番南の扇形庫と関連する転車台は、もちろん機関車を前後に並べずに扇形に並列させるためのもので、扇の角度は180度近くに達する大きなものだった。これによって、どの機関車でも、他を動かさずに引き出すことができた。
 型式名の「でて」というのはデッキガーダー型の「で」と転車台の「て」をつないだもので、転車台ガーダーがレールの下にあるもの。「すて」は、スルーガーダーのことで、間を抜けるという意味か。側面のガーダーで上下のたわみを防いで、その間の下枠にレールがある。スルーガーダーの形は中央が高い山形となる。それに対してデッキ形の場合は上面が平らだから高さは一定か中央が下に向かって高さを増している。これらの二種類の違いは転車台が入る円形の穴(ピット)の深さに関連していて、下路の方が掘らなければならないピットが浅くて済む。後ろにある数字の「20」はこの型式の長さで20メートルを示す。国鉄には長さに関して6種類の転車台型式があったが、3種類はフィート単位、3種類はメートル基準であった。転車台の分類でもう一つ大きな区分があって、バランス型と3点支持型というのがあり、重量の支え方の違いだが、今回の調査ではこれに関連するデータが出てこなかったので説明を省略する。「でて20−1」の枝番は、複数の型式があったことを暗示する。
 二つの転車台の撤去された時期については、資料が見つからなかった。西口の転車台は1974年ごろまでは存在した。南側の転車台については、扇形庫は1969年と1974年の間に撤去されたが、その前の転車台は1974年にはまだ存在していた。