写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

あれから1年

2012年06月18日 | 車・ペット

 ハートリーが亡くなってちょうど1年が経った。玄関にはまだ赤・黒・細い赤色のリード3本がぶら下げられていて、いつでも散歩に出られるようになったままである。和室の床には、握りこぶしほどの小さな骨壷と首輪、好きだったボールがひとかたまりにして置いてある。

 そろそろけりをつけなければいけない。空を見上げれば梅雨の中休みか、暑いくらいのいい天気である。「久しぶりに西の軽井沢に行こう。ハートリーの散骨をしに……」。10時に奥さんと家を出た。1時間も走るといつもの場所に着く。夏場、ハートリーがこよなく愛した泳ぎ場のあるところだ。

 近くに車を止めた。石ころだらけの川原に下りた。前日まで降った雨で、水量は多い。持ってきた骨壷を大きな石の上に置きそっと開けた。一番上に頭蓋骨の小さなかけらが、まさに蓋のようにかぶせてある。骨の一つずつを手のひらに取ってみるが、各かけらが綿のように軽い。あんなに重たいやつだったのに、こんなに軽くなって……。

 ハートリーとの楽しかった10年のそれぞれのシーン、とりわけ、この川で自慢そうな顔をして泳いでいたシーンを鮮明に思い出しながら散骨をした。白骨とはよく表現したものだ。新緑の山の中で、まさに真っ白い粉となって流れていった。

 法律では、火葬した後の焼骨が墳墓に埋蔵されたり、納骨堂に収蔵するための手続が定められているが、これら以外の方法については特段の規制をしていないという。「散骨についての理解が進んでいる一方、散骨の方法によっては紛争が生じている。適切な方法によって行うことは認められようが、その方法については公認された社会的取決めが設けられることが望ましい」としている。

 法規制の明確でない中での散骨をしたが、ごく少量の散骨であれば許されるようになってほしい。流れていく白い粉を見ていると、ハートリーが自然の中に帰っていったように感じるとともに、残った私も清々しくも爽やかな気持ちになれた。

 これを書いている今朝はまた曇り空。庭に出ると、2番咲きのバラと、今を盛りのアジサイが共演している。区切りの1年が経ち、私も元気を取り戻した。今では明るくハートリーの思い出を語ることが出来るようになったよ。ちょっと、目が潤むときもあるけどね。


腸内洗浄

2012年06月16日 | 生活・ニュース

 ちょっと気になることがあって、大腸の内視鏡検査を受けることにした。昨年の6月に同じ検査をしているので、ちょうど1年目の検査となる。何があっても、1年前に検査をやっているので大したことは起きていないと思っていた。
  
 検査の前日は朝からとる食事はきちんと決められている。朝はパン一切れくらいの軽いもの。昼は病院から与えられたレトルトのおかゆとマーボ豆腐、夕はクリームシチュウに無味のパイひとかけらだ。翌日は午後1時の検査まで絶食。その代わり、朝9時から11時までの2時間をかけて、腸内洗浄のために薬液2リットルを15分おきで飲みきらなければいけない。

 2リットルの薬液とは一体何か。腸内に残留している固形物を完全に排出させるための下剤である。薬の成分は クエン酸マグネシュウムが配合されていて、飲んだ水は腸で吸収されることはなく、大量に飲むのは固形物を水流で洗い流すためである。

 さて、検査当日の朝9時になった。2リットルの薬液をまず200ccのコップに注いだ。のどが渇いてもいないのに、薄いレモン味のする水を一気に流し込んだ。15分後に2杯目、30分後に3杯目1時間後に5杯目を飲むと、やっと半分の1リットルがなくなった。空きっ腹に飲むのは力が入らずつらい。

 気を取り直して、後半戦に入った。その辺りから、頻繁にトイレに通う。数回のトイレ通いのころから、固形物はなくなり透明な液体に変わって来る。11時、最後の薬液を飲んだあとは、透明できれいなものに変わり一安心。これで検査が受けられる。

 予約の時間に間に合うよう自転車で出かけた。途中の坂道では力が入らずやっと登り切る。前日とった食事は、1日でわずかに622kcalと表示してあったことを思い出す。自転車をこぐ脚が重いはずだ。検査室に入りいよいよ検査が始まった。若い先生は内視鏡の操作、看護師さんは腹を押さえたり姿勢を変えさせたりしながらカメラを腸に入れていく。

 昨年とは違ってやや難渋している。「はい、腹をふくらませて」「ちょっとお腹を押さえてみて」など指示を出すがスムーズに入らない。15分も経ったころやっと小腸の出口に無事到着。カメラをゆっくりと抜きながら検査をしていく。「はい、まったく問題はありません。お疲れさまでした」で無事終了。

 どっと疲れが出ると同時に検査前の注射のせいでのどが渇いている。自販機に走り、栄養ドリンクを一気に飲み干す。「腹ペコだ、おいしいものを腹いっぱい食べよう」と思うが真昼間だ。大した店は開いていない。結局行きつけのラーメン屋さんに駆け込み、味噌ラーメンと餃子で満腹。腹黒いといわれる腹は、見かけによらず白くきれいであった。


床下探訪

2012年06月13日 | 生活・ニュース

 
 5月の連休を挟んで、家の外壁の取り替え工事を行った。そのとき、屋根の板金施工か所の微細な隙間から雨が漏っていたことが見つかリ、腐食していた柱を1本取り替えた。工事は終わり季節はめぐり、先週梅雨に入った。雨が降るたびに外に出て取り替えた外壁を点検してみるが、特に異常は見つからない。大丈夫だ。

 点検といえば、長い間床下の点検をしていない。5年前、ダイニングルームに床下点検口を自分で作った。作ったといっても、インターネットで買った点検口のキットを、床を切り抜き補強部材を打ちつけて取り付けたものである。以降、数回もぐって点検したことはあるが、この2、3年は開けたことがない。シロアリがいついたり、土台水きりの不良などで、どこからか雨水が入り、土台が腐食していないかを点検するために床下に潜ってみることにした。

 床下の高さは80cmある。昔の家に比べると高いので這って進むようなことはなく、小さくかがめば少しきついが前に進むことはできる。外壁に沿って一通り見て回った。異状なしだ。気になっていた風呂場回りの床下も腐食など全くない。

 変則的な歩き方で這いずりまわること30分、うっすら汗をかいてきた。それはそうかもしれない。移動する姿勢は、まさにヨガをやっているようなものだから汗も出ようというもんだ。所々にある床下換気口から入って来る風が意外と気持ちいい。

 点検を終えて明るい床の上に出た。シャバ、いや外界?の空気はやっぱりいい。家の中なのに爽快感すらある。色々な臭いが入り混ざったダイニングルームでさ床下の空気に比べれば気持ちよい。

 車は2年に1度は車検がある。その間でも、半年ごとの点検が義務付けられている。家の点検、特に土台の点検なんぞは外側から簡単に出来ないので放っておいた。大事な家、しかも肝心かなめの土台とあれば、人間ドック並みにこれからはきちんと年に1回くらいは床下に潜り点検することにしよう。フィットネスにもなりそうだ。


散歩の効用

2012年06月12日 | 生活・ニュース

 夕方、いつものように散歩に出かけた。今日は奥さんは用事があってお休み、私一人での散歩であった。土手の小道を早足で歩いていると、前方からウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアという白い小型犬を2匹連れてゆっくりと歩いてくる女性がいた。

 「犬を連れての散歩、いいな」と思いながら、軽い会釈をしてすれ違おうとした時「あっ、ハートリー君亡くなったそうですね」と、その女性が声をかけてきた。白っぽいハットを深くかぶった女性だが、誰なのか全く覚えがない。「えっ? ハートリーをご存じなんですか?」と問うと、何度か会って話したこともあるという。

 しばらく犬談義となった。「このワンちゃん、去年東京まで行って甲状腺の手術をやったのですよ」「東京まで行って?」「こちらではもう駄目だといわれたので…」「失礼ですがいくらかかりました?」「手術だけで30万円も」「ハートリーも、白内障で手術を…」などと言いながらしばし犬の話。

 話をしながら女性の顔を見るが、女優にしてもいいような目元ぱっちりの色白美人だ。年はアラフォーというところか。垢抜けしたなかなかの美女である。以前会ったことがあるから話しかけられたに違いないが、私にそんな覚えはない。2、3年も前のことかもしれない。

 「お家はどちらなんですか」「駅の近くです」。厚かましくもさらに質問してみた。「ご出身はどちらなんですか?」「東京です」「東京はどちらで?」「世田谷です」「世田谷の?」「阿佐ヶ谷です」。「私は三鷹に単身で2度いたことがあるんですよ。それと横浜にも」と、身上調査の後に東京談義。

 どうやら、岩国出身の人がご主人のようであった。散歩を中断して10分間も立ち話をしたろうか。話が長くなったせいか、2匹の犬は地面に横になって休んでいる。美人との話は尽きることがない。「じゃあ、また。さすが東京の人ですね。垢抜けしていて美人です」と少し照れながら言って別れた。 

 「犬も歩けば棒に当たる」とはよくいうが、「散歩に出れば美女に当たる」お話。ちょうど1年前に亡くなったハートリーは、私に散歩での違う楽しみを残してくれていた。ハートリーも私と同じ趣味だったことが今分かった。そういえばハートリー、若い女性にはよくすり寄っていたな~。


ホタル再会

2012年06月11日 | 季節・自然・植物

 最近は週の内4、5日は夕方の散歩に出かけている。距離は往復約3km。長い距離ではないが、早足で歩くと中間点当たりでは汗ばんでくる。私にとっては、丁度よい運動量だと思っている。

 昨夕も、いつもの通り家を出た。駅の方に向かって国道から離れた山沿いの小道を歩く。ほんの2、3分歩いたところで、平家山から流れてくる幅2mばかりの小川に出る。近くに住んでいる奥さんが孫の手を引き川をのぞき込んでいた。その時、昔見た懐かしい光景を思い出して聞いてみた。

 「この川には、昔ホタルが出ていましたよねぇ」と言うと、意外にも「いえいえ、最近また出るようになりましたよ。1週間ばかり前から30匹くらいが、あの葉が茂った辺りに出ますよ」と言って、やや上流の川面に木が覆いかぶさり、茂って薄暗くなっている辺りを指差す。

 おおっ、今時こんな近くでホタルが舞っているなんて。思い起こせば、この川でホタルを見た記憶といえば、あれは子供のころか。上流に沿って、古い家が数軒しかなかったころである。その後、新しい家が何軒も建つにつれ、ホタルは姿を消した。その家々も世代が変わり、今は高齢者が多い家庭となっている。

 そんな生活環境の移り変わりが、ホタルにとっては住みよい環境となったのか。確かにせせらぐ水は見た目はきれいで、底の方にはカワニナもたくさんいる。川筋も汚れてはいない。住民も汚さないように気を配ってもいるのかもしれない。すっかり暗くなった夜8時、改めてホタルを見に出かけて見た。ほど良い間隔を保ちながら数十匹が、ここかしこでゆっくりと舞っている。昔遊んだこの川で、数十年ぶりに見るホタルであった。

 このホタル達、途絶えたと思っていた長い年月、どこでどうしていたのだろうか。1匹1匹が愛おしく、久しぶりにご先祖にあったような気持ちになった。うんと昔、我が家の側にある溝のような川にもホタルがいた。時代は進み、得たものは多かったが失なわれていったものも多い。ホタルのように失われていったものは、そのものがなくなっていったばかりか、懐かしい思いでさえも奪い去っていたことに気が付いた。