のらやま生活向上委員会 suginofarm

自然と時間を、都市と生命を、地域と環境を、家族と生きがいを分かち合うために、農業を楽しめる農家になりたいと考えています

身捨つるほどの窓に見ゆ秋暮れる

2006年11月11日 | わが家の時時
先日の予報より早く、朝から小雨が降っています。たまたま農機具屋さんの展示会が開かれているので、午前中は農機具のパンフレットをもらいながら冷やかしてきました。帰ってみると、玄関脇の小窓の下に小鳥が落ちて!いました。

体長25cmほど、頭から背中は灰色、頬が褐色、頭頂部は冠のように立った羽……ヒヨドリのようです。先日からショウビタキ?が小窓の桟に止まっては、ガラスを突きながら糞をしていました。今日はヒヨドリがそのガラスの向こうに行きたい衝動にかられ思い切り飛んできて、首でも折れたようです。


さて、話は昨日の続き、長谷川櫂著『俳句的生活』の「第8章 習う」です。

日本語の「習う」にはまず、まねること、模倣するという意味がある。ところが明治以降、西洋流の芸術観にならって、新しいものを創り出すことこそ、芸術の使命であり、個人の才能や個性の発揮が求められるようになる。しかし、それは天才達の時代であった19世紀ヨーロッパの一時の特異な思想である。ヨーロッパでも18世紀までは江戸時代までの日本と同様、古典主義の時代が続いてきた…

古典主義とは、子供が母親からしか生まれないように新しいものは古いものからしか生まれないという考え方である。古典とはむしろ時間を超えて生き続けているもの、これからも生きていくもの、人間がつかの間の人生で見出した永遠である。今生きている私たちの方が古典より先に死の床に横たわる運命にある…

俳句にかぎらず何であろうと習うということは自分を捨てること。捨てたくらいでなくなってしまう自分などもともと大した自分ではないのである…

この部分を読んだとき、最近問題となっている教育のあり方が思い起こされました。過度に、個性だ、自分が大事だ、自分という砦に立てこもって受け入れがたいところは拒む、という社会的風潮になっていないでしょうか。

人類の財産である古典をきちんと学び、それを乗り越えて初めて新しい価値が付与される。当たり前のことを日ごろ忘れてしまっていた自らの戒めとなりました。

さっそく、今回の北信州の旅で立ち寄った一茶記念館で、一茶の発句・俳文を風呂の中でも鑑賞しようと『風呂で読む 一茶』(世界思想社、980円)という本を購入してきました。