そこそこの放送作家・堀田延が、そこそこ真面目に、そこそこ冗談を交えつつ、そこそこの頻度で記す、そこそこのブログ。
人生そこそこでいいじゃない



今日は水曜日だ。

この4月から「笑っていいとも!」水曜日のレギュラーに、南野陽子が新たに加わった。
なぜ「いいとも!」に今、南野陽子なのか?
この点については、「いいとも!」のプロデューサーも作家も知人なので、僕は言及を避ける。
とにかく、南野陽子が毎週水曜日のお昼、テレビに出るのだ。
それでいい、別にいい、問題ない、ないったらない。

で、今回は南野陽子の話、だ。
なぜなら、彼女に僕はひとかたならぬ思いがあるのだ。

高校3年生の頃、僕は彼女の大ファンだった。
そして、彼女のおかげで、大した勉強もしていないのに早稲田に現役で合格できたのだ。
今も僕は、大学に合格できたのは南野陽子のおかげだと固く信じている。

それは、こういう話だ。

僕の通った高校は県内一の進学校だった。
高3の二学期ともなると、生徒たちはみんな受験勉強一辺倒になる。
落ちこぼれだった僕は、そんな周囲の雰囲気から逃げるかのように南野陽子に入れ込んだ。
現実逃避の相手が、南野陽子だったわけだ。
勉強もせず、授業中ウォークマンで南野陽子のアルバムを聴いたりしていたバカな高校生だった。

そして、受験の最後の追い込みに突入していた高3の10月。
僕は友だち2人を無理矢理誘い、よみうりランドで開かれた南野陽子の新曲発表&握手会イベントに行った。
それも、わざわざ前日から泊まり込んで、だ。
山岳部のテントを持って行って、だ。
もう、やけくそだった。
受験から逃げたかったのだ。
バカだなぁ。
で、3000人ぐらい集まったイベントで、徹夜までした僕らは前から3列目の席を確保した。
徹夜しても行列の200番目ぐらいだったのだ。
なんと一番先頭の奴らは3日ぐらい前から並んでいた。
バカだなぁ。
まぁ要するに、みんなバカだったわけだ。

で、僕は南野陽子と握手した。
初めて生で見た彼女はこの世の物とは思えぬほど可愛かった。

そして、それから2ヶ月後のある日。
書店で見つけたのがこの写真だった。
何と、僕が南野陽子と握手している瞬間が、雑誌に載っていたのだ。
今はなきアイドル雑誌「近代映画」の1987年1月号だ。

この雑誌を見つけたときは、飛び上がって喜んだ。
なんという幸運!
3000人の中から、僕と南野陽子のツーショット写真が選ばれ、雑誌に掲載されたわけだ。
こんなラッキーなこと、そうそうあるもんじゃない!

だが、僕の幸運はこれだけでは終わらなかったのだ。

当時、南野陽子はラジオ番組を持っていた。
たしか「ナンノこれしき」とかいうタイトルでニッポン放送だったと思う。
そして、僕が高3だった1986年の年末。
その番組で南野陽子からのクリスマスプレゼント企画が行われた。
それは「南野陽子がその声で起こしてくれる、特製『目覚ましテープ』を100名にプレゼント」というものだった。

僕は当然、応募した。
ハガキを一通だ。
そしたら、ある日突然、ラジオ局から小包が届いた。
なんと『目覚ましテープ』が当選したのだ。
なんという幸運!
実はこのプレゼント企画、ラジオ局にハガキが25万通も殺到したのだ。
25万通の中の100通に、僕の出したたった一枚のハガキが選ばれるなんて!
こんなラッキーなこと、そうそうあるもんじゃない!

だが、僕の幸運はこれだけでは終わらなかったのだ。

「一応受けてみっか」と軽い気持ちで受験した早稲田の一文に受かってしまったのだ。
第一志望、である。
なんという幸運!
あとでテストの答え合わせをしたが、僕の取った点数はひどいものだった。
とても合格できる点数じゃない。
英語35点とかだもん。
つまり、採点コンピューターのミスかなにかでたまたま合格したに違いない。
こんなラッキーなこと、そうそうあるもんじゃない!

そう、これでお分かりのはずだ。
僕の大学合格は、南野陽子がもたらしてくれた一連の幸運のおかげなのだ。
ホップ、ステップ、ジャンプの3連続の幸運だ。
人生38年間で、あんなにツイていた時期はほかにない。

テレビの仕事をするようになって、南野陽子さんには何度か僕の番組に出演していただき、直接挨拶したこともあったし、知り合いのプロデューサーの結婚式の招待客の1人だったこともあるのだが、とてもじゃないが、おいそれと会話できないし、当然こんな話はご本人にはしていない。
「だから何なの?」だろうから。

でも、南野陽子は、間違いなく僕の人生の大恩人なのだ。
誰が何と言おうとも。

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