goo

『小説に書けなかった自伝』(読書メモ)


新田次郎『小説に書けなかった自伝』新潮社

『強力伝』『孤高の人』『八甲田山死の彷徨』で有名な新田次郎氏の自伝である。気象庁に勤めながら小説家として成長してく過程が生き生きとして描かれている。

心に残ったのは次の点。

奥さん(藤原てい)が書いた『流れる星は生きている』がベストセラーになり、「よし俺も書いてやる」と意気込んでいた新田氏は、サンデー毎日の懸賞小説に応募する。このときの小説修行法が面白い。

「玄人と勝負して勝つには、まずその手の内を研究せねばならないと考えた私は、当時流行作家として有名だった某氏の代表作を一応読んでから、その小説を原稿用紙にそのまま書き写してみた。文章の息の長さや句読点の打ちどころの要領を覚えるためだった。(中略)私はこの原稿用紙への書き写しの作業をやってみて、既成作家がそれほど恐るべき競争相手ではないと思った。このくらいの文章なら、私にも書けるような気がした」(p.21-22)

まずは模倣して勉強するという姿勢がすばらしい。このとき応募した『強力伝』は直木賞を受賞することになる。普通であれば、いい気になって独立しそうなものだが、新田氏は作家としての地盤が固まるまで、気象庁に勤め続けながら考えた。

「四十歳を過ぎてから作家になったのだから、なにか特徴のある作家としての存在を認められないかぎり、必ず脱落してしまうだろう。ではいったいなにを主軸に書いて行くべきかというのが、私に取って大きな課題だった」(p.65)

その後、SF、ミステリー、メロドラマなど、さまざまなジャンルの小説を実験的に書き、評論家や読者の反応を見ながら模索する新田氏。そして最終的に行き着いたのが「山岳小説」という領域だった。

興味深かったのは、新田氏が当初書きたいと思っていたジャンルの小説があまり評判がよくなかった点である。自分の進むべき道は、かならずしも自分の「思い」によって決まるわけではなく、その人の適性、周囲の反応、偶然によって導かれていくのだろう。

山岳小説の第一人者になった新田氏であるが、こんどはその呪縛に苦しむことになる。昭和42年、『新田次郎山岳小説シリーズ』全五巻が新潮社から出版されたとき、新田氏は次のように思った。

「私はこの小さな全集を手に取って、いよいよ「山岳小説家」という小さな籠の中にとじこめられた、もう駄目だと思った」(p.166)

新田氏は、山を書きたかったわけではなく、山を舞台とした人間を書きたかったのだ。その後、『武田信玄』『霧の子孫たち』を書くことで、山岳小説の殻をやぶることができたようだ。

いろいろな自伝を読んできたが、本書はたぶんトップ3に入る面白さである。役人としての成長、作家としての成長プロセスがドラマチックに描かれたこの自伝は、優れた小説のように思えた。











コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
   次ページ »