松尾睦のブログです。個人や組織の学習、書籍、映画ならびに聖書の言葉などについて書いています。
ラーニング・ラボ
『パーソナリティ障害』(読書メモ)
岡田尊司『パーソナリティ障害:いかに接し、どう克服するか』PHP新書
生きることに苦しみ、周囲をトラブルに巻き込んでしまう人々の多くは、パーソナリティ障害を抱えているという。
パーソナリティ障害は、以下の10タイプに分かれるが、共通点は「自分に強いこだわり」を持ち、とても「傷つきやすい」こと。
1)境界性=深い自己否定感を持ち、躁鬱状態を行ったり来たりする
2)自己愛性=自己愛が肥大化し、他人のことはどうでもよくなる
3)演技性=嘘をついたりして、絶えず他者の注意を引こうとする
4)反社会性=平気で他人を傷つけたり、冷酷に貪ることができる
5)妄想性=人を心から信じることができず裏切りを恐れる
6)失調型=奇妙で奇異な考え方を持ち、非現実的にふるまう
7)シゾイド=他人に対し壁をつくり、自分の世界で生きる
8)回避性=失敗や傷つくことを極度に恐れ、引きこもる
9)依存性=自分で決めることができず、他人に頼り、しがみつく
10)脅迫性=極度に責任と義務を大切にする完璧主義者
なぜ、このような障害を抱えてしまうのか?
それは、(多くは親のせいで)「自己愛(自分を大切にできる能力)」が適切に育っていないからである。自己愛が強すぎたり、逆に、自己否定的になったり、自分を守るために過剰防衛してしまうのだ。
では、パーソナリティ障害は治らないのか?
「パーソナリティ障害は、パーソナリティの度が過ぎて社会に適応して生きていくのを邪魔している部分なので、変える必要があるし、実際、変えることができる。パーソナリティ障害を克服した人は、とても魅力的なパーソナリティとして円熟する」(p.284)
本書の中で最も印象に残ったのは次の箇所。
「かつて、学ぶとは、人としての道を修めることであり、それは、すなわち人格を陶冶することに他ならなかった。人々は、知識よりも、心のあり方や、身の処し方を、情報としてではなく、血肉として身につけるべく努力したのである。(中略)いま一度、学ぶということが、自分を深め、人間としてのありようを究めることに回帰する必要があるのではないか。」(p.282)
人格陶冶としての学びの重要性に気づかされた。
生きることに苦しみ、周囲をトラブルに巻き込んでしまう人々の多くは、パーソナリティ障害を抱えているという。
パーソナリティ障害は、以下の10タイプに分かれるが、共通点は「自分に強いこだわり」を持ち、とても「傷つきやすい」こと。
1)境界性=深い自己否定感を持ち、躁鬱状態を行ったり来たりする
2)自己愛性=自己愛が肥大化し、他人のことはどうでもよくなる
3)演技性=嘘をついたりして、絶えず他者の注意を引こうとする
4)反社会性=平気で他人を傷つけたり、冷酷に貪ることができる
5)妄想性=人を心から信じることができず裏切りを恐れる
6)失調型=奇妙で奇異な考え方を持ち、非現実的にふるまう
7)シゾイド=他人に対し壁をつくり、自分の世界で生きる
8)回避性=失敗や傷つくことを極度に恐れ、引きこもる
9)依存性=自分で決めることができず、他人に頼り、しがみつく
10)脅迫性=極度に責任と義務を大切にする完璧主義者
なぜ、このような障害を抱えてしまうのか?
それは、(多くは親のせいで)「自己愛(自分を大切にできる能力)」が適切に育っていないからである。自己愛が強すぎたり、逆に、自己否定的になったり、自分を守るために過剰防衛してしまうのだ。
では、パーソナリティ障害は治らないのか?
「パーソナリティ障害は、パーソナリティの度が過ぎて社会に適応して生きていくのを邪魔している部分なので、変える必要があるし、実際、変えることができる。パーソナリティ障害を克服した人は、とても魅力的なパーソナリティとして円熟する」(p.284)
本書の中で最も印象に残ったのは次の箇所。
「かつて、学ぶとは、人としての道を修めることであり、それは、すなわち人格を陶冶することに他ならなかった。人々は、知識よりも、心のあり方や、身の処し方を、情報としてではなく、血肉として身につけるべく努力したのである。(中略)いま一度、学ぶということが、自分を深め、人間としてのありようを究めることに回帰する必要があるのではないか。」(p.282)
人格陶冶としての学びの重要性に気づかされた。
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