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『坐禅は心の安楽死:ぼくの坐禅修行記』(読書メモ)

横尾忠則『坐禅は心の安楽死:ぼくの坐禅修行記』平凡社

アーティストの横尾忠則
さんは、30代の頃(今から40年ほど前)、1年間坐禅修行を行っていたころがあった(今はやっていないらしい)。その体験記が本書である。

まず驚かされるのはお寺の坐禅修行は軍隊のように厳しいということ。僕などは、絶対に参加したくないと思ってしまった。

ただし、本書はとても楽しく読める体験記であると同時に、哲学書でもあるということだ。横尾さんの思考の深さに驚いた。

この本のキーワードは、竜泉寺住職の井上義衍老師の「人間は本来悟っている存在」という言葉であろう。横尾さんはいう。

「悟りとはゴムマリに針のような小さな穴をあけて、ゴムマリの内側をつまんでひょいと内側をそのまま外側にしてしまうようなものかもしれない。これと同じように人間のどこか一カ所に針の穴をあけて、そこから中身をつまみだして、裏返せばいいのだ。その針の役目をするのが坐禅であろう。すでにわれわれの中身は悟っているのだ。ところが知識や、教養や、自分勝手な経験にたよったり、情報によって観念に支配されており、いつの間にか内側に通ずる皮膚の表面が鰐の背のように硬くなってしまっている。容易に穴があくものではない」(p.167-168)

人間は生まれたときには宇宙や神様とつながっているが、大きくなるにつれて、その感覚が失われてしまう。それを思い出すのが坐禅であるという。

個人的に響いた言葉は、永平寺東京別院の田中真海師が言われた「宇宙とぶっ続きの坐禅」。

本来、宇宙とぶっ続きであるはずなのに、それを邪魔している執着・欲望・こだわりがある。それを取り除くのが坐禅である。

宗教によって異なるが、坐禅の機能を果たすのが「祈り」なのかもしれない、と思った。

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