七曲~大橋~金峯山寺・蔵王堂~吉水神社~竹林院~花矢倉~吉野水分神社~如意輪寺等を巡る。
アップダウンのあるハイキング道
ほとんどの所は行ったことがあるが知らないことだらけだ。
金峯山寺 仁王さん
石垣修復中 蔵王堂(金峯山寺本堂)
何年か前、7月の「蛙跳び」行事の時、高田の奥田池でハス取り行事を見、吉野へ。そしてここで蛙を乗せた神輿を追っかけた。神輿がこの階段を駆け上がるのは壮観だった。
節分の「豆まき」の時は、蔵王堂の前出てくる赤鬼・青鬼と写真を撮り・豆を拾い・・・
修復中らしい石垣の石には「砂80」「へ1033」などの印がつけてある。色も形も様々だ。
もっと知りたいと思って調べてみたがわからなかった。
蔵王堂が山上ヶ岳からの巡礼を迎えるために南向き、大阪や京都からの(逆峯入り)信者のためにこの仁王門は北向きになっていることを知った。
蔵王堂は今年の行事に備えてか、ただいま修理?調整中。
次に土産物屋の並ぶ通りの左側にある鳥居をくぐって吉水神社へ階段を降りる。
ところで・・私は時々大発見をする。「発見」とは、世界的な発見もあれば単に「今まで無知であったことがわかった」という個人的な発見もあり、私のは当然後者で、それだけものを知らないことを露見しているということは承知している。
みんなより一足遅れて門近くに来て、ここで「すごい大発見」をしたのである。
吉水神社の門の前に1対の「狛犬」があった。割合すっきりとした形。
いろんな形のある狛犬だが、私は狛犬を見る時必ずチェックすることがある。
そして、今日も見ると・・あった! 初めて見た。大発見だ!・・となる。
向かって左の狛犬 ちょっと失礼して覗くと・・立派なタマタマが・・
右のにも同じようにあった。
もうだいぶ前の事。友達から「付いているのがあるらしい」と聞いて、見るもの見るものチェックしているが、今まで1度も見たことがなかったのだ。
あった。あった。胸がドキドキ・・当然、みんなにも吹聴した。
「狛犬」の事を帰ってからちょっと調べてみた。
以後受け売り。(端折っているので正確には各自で確認を)
*ルーツはインドらしい。
*一番古い石造りの狛犬は奈良東大寺南大門のもの。平安時代 宗の様式
その後日本化していく。
*狛犬と言うが、獅子と狛犬(どちらも想像上のもの)
一般的に、右ー口を開けた阿形・角のないのが獅子 左ー口を閉じた吽形・1本
の角のあるのが狛犬で、「獅子狛犬」と言うのが正しいというが、両方狛犬の
ものもあり「狛犬1対」という。
*鎌倉時代 左に獅子・右に狛犬(神前から見て)を置くようになる。
*室町 神社外郭に随身門が作られるようになり境内に置かれるようになる。
*江戸 一般大衆が奉納するようになる。
*明治 神仏分離により神道の復活・神社の格付け・・などで、
当該神社にふさわしい狛犬を置くようになり、地面からの雨の跳ねかえりによる
侵食を防ぐため台座が高くなる。
*戦後は機械彫りが多くなるなどで均一化
タマの事はネットで見てもタマにしか載ってない。
ところで雄雌は?というと、角のある方が雄だとか、子供を連れているのが雌だとか、雌雄は「ある」・「ない」の両説あるらしいが・・
吉水神社のは両方タマタマがあるということは?・・
そして、狛犬の他に、牛・ネズミ・イノシシ・キツネ・・など見たことがある。
吉水神社境内には日本最古といわれる「書院」・弁慶が石に打ち込んだといわれる「弁慶の力釘」「見晴らし台」もあった。
一目千本と言われる見晴らし台 今の景色 右)桜の季節(写真)
元の道に戻る。
土産物屋の樺細工(桜皮) 空き地に干してあるのは・・夏蒲団
店先にクズの鉢植え・・涼しそう・・グリーンカーテンにいいかも。
大塔宮仰徳碑(後醍醐天皇の皇子 護良親王)の前の狛犬
たてがみはぐるぐる渦巻き、尻尾もふさふさと立派で、台座も装飾的。
これには?・・なかった。
左前足は玉を抑え、右は仰向けになった子犬を足の下に敷いている。
次に行った雨師観音は初めて知った。そばにはモミジの大木 見晴らしも良い。
蔵王堂が下に見え、あんな下から登って来たんだ~。
昼食場所の花矢倉へ。
「花矢倉」美しい言葉の響きとは裏腹に、兄源頼朝に追われた義経一行が潜入した吉野山に追いかけてきた敵を義経の身代わりとなった家来がこの丘から「矢を雨のように浴びせて防いだ」古戦場だという。
世尊寺跡の碑があった。今は他の場所にある世尊寺は元はここにあったらしい。
すばらしい眺め。 蔵王堂を見下ろす
ほどなく吉野水分神社に到着。今日の最終地点だ。
この階段下に「世尊寺」の名のある常夜燈があった。 本堂は桧皮を葺き替えたばかり
豊臣秀頼が寄進したという神輿や湯釜があった。
帰り道
急な下り~稚児松地蔵尊を経て・・ 如意輪寺 裏山には後醍醐天皇塔尾陵がある。
御醍醐天皇の勅願寺といわれ、天皇没後、楠木正行が大阪四条畷の戦いに出陣前、本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされる。
「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」
マタタビ ユキノシタ
脱落しないで最後まで歩け、久しぶりの吉野路を楽しんだ。