みどりの野原

野原の便り

9月26日 箸尾周辺 教行寺 大福寺 櫛玉比女命神社

2017年09月26日 | Weblog

箸尾周辺を巡る。

平安~室町時代にかけて広陵町から田原本町に広がる荘園の有力武将だった箸尾氏。

戦国時代には筒井氏・越智氏・十市氏と並び大和4家に数えられ、室町時代には箸尾城を築き、戦国時代には箸尾郷とよばれる勢力範囲を持っていた箸尾氏だが、天下統一が進む中、力を失っていく。
一族の中には豊臣秀長や筒井定次など武将に仕える人もいたが、帰農する人も多く、庄屋を務めるなど村の指導者となっていった。

明治22年に箸尾荘という強固なつながりをを持つ 萱野・的場・弁財天・南・大場・中村が合併して箸尾村が発足。
明治44年に河合村に属していた3大字が箸尾村に編入し、9か大字からなる箸尾村が発足したが、箸尾荘のつながりの強い農業地域と商業地という特性の違いもあり、村内にはしばしば対立が生じたという。


江戸時代、箸尾は下街道・三輪街道の交わる交通の要衝として栄えた。 
下街道の古い街並みを歩く。

①(北)大福寺 高野山真言宗 
聖徳太子建立の広瀬寺の後身という。
江戸時代には、東と北の2つに分かれ6坊の塔頭を持っていたが、東大福寺は明治時代に廃寺となり、今残るのは北の大福寺。
30石の領地を認められていた。

 
        大福寺        古い時代の舟型五輪塔や13重の石塔などが残っている。

②箸尾城跡

箸尾氏の拠点で、環濠集落を持つ平城だったらしい。今は石碑が建つのみ。

③教行寺 箸尾御坊ともよばれる浄土真宗大谷派の中心寺院の一つ。

 
教行寺はこのあたりで中心的寺院。
寺伝によると、本願寺8世蓮如により今の高槻市富田に創建。
その後、現・河合町佐味田へ移転。そして、田原本周辺に領地を持つ平野長泰の誘いに応じ田原本へ。
田原本で周辺に地内町を建設していったが、平野氏との間で対立が生じ、佐味田へ戻り・・
承応元年(1652)現、広陵町萱野へと移転。ここで寺内町を作った。

 
  教行寺境内のイチョウ   木の下にギンナンがいっぱい落ちていた。

④願乗寺

 
   浄土真宗本願寺派 願乗寺。    右)ソテツ 枯れた雄花序が見えた。

箸尾は真宗大谷派教行寺の寺内町だが、真言宗や融通念仏宗のお寺もある。   

 
      葛城川 堤防         左下にはヨシの生える湿地もあった。

⑤櫛玉比女命神社

元は大福寺の鎮守社であったという。今は廃寺となった東大福寺のそばにあったらしい。 

 
社殿は古墳の上に建つ。 広い境内      鳥居は葛城川の方に開いている。

宗派の違いや地域の特性の違いなど様々な人々の気持ちをまとめる・・
神社信仰は人心をひとつにする役割もあったようだ。


町のあちこちに立っていた「とたて(戸閉)祭」の幟。
例祭は地域の人に支えられて営々と続いている。    

曽我川・葛城川・高田川の3川は、水害で人々を悩ませたが、半面、豊かな水は稲作にとってはなくてはならないものだった。 
葛城川から水門によって水が引かれ、田圃への取水口、水路のメダカなどを見ながら半日の箸尾街歩きを終える。 

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