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連載36 102歳まで生きた母(大橋絢子)の日記、絶筆後息子(私)との会話 101歳の頃

2015-06-06 | 「私がお話し」します。

 「今日できたことが 明日できればそれでよい。」
 

 絢子という名前は、父・孝が棚橋絢子さんから取って付けたものだと101歳の母から聞かされた。私はその方を知らなかったので調べてみて驚いた。

 棚橋絢子という方は、幼少から父親の影響で,学問に親しみ,失明の漢学者棚橋大作氏と結婚し,愛知県で寺子屋や私塾などを開いた。その後上京して,貴族の娘の家庭教師や学習院等で教師として活躍した。58歳の時,名古屋市が高等女学校(現在の菊里高等学校)の創設を依頼し,初代「おなご校長」として評判となる。その後,東京高等女学校(現東京女子学園)の初代校長として65歳で就任し,100歳まで校長職にあった。

 どんな時代でも男性と同じように女性も教育を受けることが大切であると教え続けた。訃報は,ニューヨーク・タイムズにも掲載された。101歳だった 父・孝の弟が学習院の教授だったからきっとその名前が気にいっていたのだろう。
   この人の名前をもらったのなら101歳も納得である。

 

101才 「もう望むことはない

 「今日できたことが 明日できればそれでよい。」
 いつも明日を見て生きる、101歳をむかえたときの母からのメッセージです。

 母の101歳は、物集女町のケア回生で迎かえましたが、車椅子とベッドの上の時間が多くなっていました。3~4日に一度は洗濯物を取替えに行かねばならなかったけれども、どんなに忙しくても、30分くらいは時間をとってつまらない話のお付き合いをしていました。

 ある日、絢子さんは「ここの部屋はお昼やのに暗い、電気がもったいないしかなー。目が悪いのかなー。この廊下は寒い、暖房がゆるいなー。 考えたら長生きしたもんや! 死んだら土になるだけやからもう一寸生きてるしか仕方ない」という。

 私は冗談半分で、母への励まし?の意味をこめて、「いや、まだすることがある、それは子や孫、ひ孫に最後に教えなければならないことが残っている。それは、人間の死に方を教えてもらわなければならない。いくらお金を出してたのんでも自分の死に方を教えてくれる人はいないのだから・・・? 」それには何も答えずただ笑っていました。

 しばらくして「そうやなー。もう何も望むことはないワ、今日できたことが、明日も出来ればそれだけでエエワ!」という、これはどこかで聴いた言葉です。そうや、イチロー選手の記者会見の談話を思い出しました。

(そんなことができたら永遠に生きている???)


私は、絢さんはことここに至っても、考えることは世界水準??であると・・・。

これは年寄り親子のある日の会話です。

 

7・ 8 毛染め、カット ¥6500

 

6・ 9 (回生の記録より)

トイレ全介助連れて行く、普段オムツ 自分で立てる、車椅子一部介助 

伝い歩き見守る、 シャワー  自分で食べられる

 

11・11 毛染め、カット ¥6500 

 

101歳  「いくつになっても身だしなみを考える。」


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
絢子の記事を目にしました (棚橋毅)
2015-12-12 15:37:01
初めまして、絢子の玄孫です。現在棚橋絢子の創設した東京の港区にある東京女子学園で教鞭をとっています。絢子に関するコメントを書いて頂きありがとうございます。
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