柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

文化

2023-08-14 07:25:15 | Weblog

8月の定番話題は戦争と盂蘭盆会です。終戦記念日がちょうど8月15日だという偶然、死者を身近に迎える日が多くの死者を出した戦争の終わりの日だという偶然が、もちろん当時にそんな期日を考える余裕などはなかったでしょうが、気持ちを濃くしているのは否めません。戦争を知らない世代が時代背景を考えずに軽々に語るは慎まねばならぬことですが、徒に目を逸らすのもならぬことではありましょう。とは言え、昭和は遠くなりにけりです。新聞に月刊誌に今年は柳田国男の「先祖の話」を引いての文章を多く読みました。そこで浅学を思い知らされると言うか、へぇ~の連発でした。この本は昔読んだのでしたが、一体どう読んでいたのかと言うほど何も残ってなくて、柳田国男読みました、遠野物語以外も読んでますだけのことだったと。それは措いて、何を初めて知ったかと言うと、日本古来の祖霊信仰(氏神信仰)と浄土教信仰との違いです。前者では祖霊(死後の魂)は普段は山の上から子孫を見届けている。死後手厚い供養を受けることで次第に固有の名前を失い氏神に吸収されていく。春には田の神となり五穀豊穣を助け、盆や正月には山から降りてきて家を訪問する。それを生きている子孫は迎え火送り火で歓迎する。だから家の存続が大切なのだと、この時代とかく破棄すべき旧態の典型として忌み嫌われる家制度、家父長制度に繋がっていくのです。一方で浄土教では、死者の霊魂が留まることは怨霊その他生者の社会を危うくする状態であって、供養された霊魂は遥か西方浄土へ向かうことで社会秩序は保たれるとすると。そうかぁ。合点がいくと言うか、腑に落ちると言うか、浄土宗・浄土真宗とはそういうことかぁと。南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経と唱えればお浄土へ行けるという救済思想の魅力だったのですねぇと今までのいくつかの知識が繋がったという感覚です。氏神様とよく聞くことでしたがそういうことだったんですねぇ。そこで生きて死んだ人たちの霊が生者を守ってくれているという信仰。四九日とはどういう意味かと昔知った時にも感心したことおぼえてます、死んだ人の霊は四九日の間は近くの山の木々に留まっている、その日を過ぎれば浄土へ向かうというものでした、そうかぁと。もちろんそんな時には田舎の風景(当地には事欠きません)を思い浮かべて合点するのですが、都会ではどこに留まってるのだろうかと屁理屈を思うたことでしたが。菅原道真や崇徳天皇の怨霊は有名です、これも浄土教信仰の産物ですね。お浄土へ行く行かぬは成仏するしないと同義なのでしょうか、とそれでも疑問は湧いてきますが。日本古来の八百万の神々信仰やこの氏神信仰と新興仏教とが融合する(融合なんて上等なニュアンスではなくてごちゃまぜる感じ、いいとこ取り)、それが今私たちが祖父母両親から教えられ子供や孫に伝えている盂蘭盆会の儀式です。新聞や雑誌の論調は家意識の希薄化、祖霊信仰の廃れによって死者の霊は迷走している、戦没者を含めた先祖への祭祀は不可欠だと警鐘を鳴らすものです。非科学的な迷信と擲るが風潮ですが、社会秩序は数字で置き換えられるものばかりではありません。石原慎太郎がよく言ってた垂直の情念です、年代を越えて貫く棒のようなもの。論語の素読と同じ効果でしょう、わかるわからぬの理屈ではなく繰り返し体で覚えること。それが伝統、文化なのでしょう。

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