国会討論でガースーさんは、持論である自助共助公助の流れと釈明してましたが、緊急事態宣言で生活苦に陥っている店舗や従業員にしっかり手当しろ!という野党の非難に対して最後は生活保護があると断じました。ちゃんとしたセーフティーネットがあるのだと。厚労相も生活保護を受けることは国民の権利だと勧奨する発言していると今朝の毎日新聞のコラムにあります。ふむ。コラムは「一時的に税金に頼って暮らすことは当然の権利だ」「誰であれ税金の世話にならずに生きることはできない」とのこれでもかの正論で締めてます。ふむ。後者は公的インフラを想定してのことなのでしょうね、上下水道整備とかゴミの収集処理とか。それと生活保護とを一緒にしちゃ問題のすり替え、話を大きくして誤魔化す手法でしょうに。コラムは当該制度の沿革をなぞり、当初は慈悲の恵みの救済だったが戦後は権利とされたと。で、生活保護を受けることへの後ろめたさ、自責の念を持たせる風潮がいけないのだとの流れです、ここの所はいかにも毎日(朝日勢力らしい)で。後ろめたさや自責の念がいけないのですか?そういう気概こそが生きていく意地というか力になるんでしょうに。他人の世話にはならぬという意地。たとえそれが痩せ我慢であったにしてもです。ガースーさんの言う自助ってのはこういう心意気のことでしょう。ここは理解します。できるできぬの前に、何とかしようとする思い。他人の世話にはならぬぞとの意地、他に言葉が見つかりませんから繰り返しますが。その心張棒が外れ折れたら、人は安直に流れるのみでしょう。震災や大津波の大災害の後に多くの一時金を手にした人の中に、働かなくなって自堕落に過ごしている者も少なくないと聞きます。これは誰もが心の中に持つ性癖です。でも、それはならじと誰もが抑えているのです。だから、他人の世話になって生きることは恥ずかしいことなんだという世間体、社会規範、常識、道徳観が保たれることは住民国民民族の質を保つ、極めて根源的な要素なのです。税金を使う使わぬは副次的な側面です。税金を使うことに恩義など感じなくていい、当然の権利だと居直ることがその人の心のつっかえ棒を折ってしまうことには連中は言及しません。平等こそが、結果の平等こそが民主主義と思い違いしてる連中です。同じことを立憲の長妻さんが言うてましたよ。時短や休業要請に従わない店に罰金か科料か知りませんが30万円だか50万円だかを課すとの政策を話題にした討論番組でです。討論相手の舛添さんが、こんなこと決めて大手のチェーン店が罰金払っておいて夜遅くまで営業したらそこに客が集まってかえって儲かるということが起こるだろうにと皮肉を言うたのでした、それを受けてここぞと声張り上げてました、法律に従わず利を上げるなんては秩序の崩壊を呼ぶことだ、悪法に過ぎることと。生活保護を当然の権利として誰彼に申請を勧めることは道徳観、社会規範の崩壊じゃないんでしょうかね。科料支払って時短に応じないのは法律違反じゃないですよ、それこそ権利ですわね。こっちは秩序の崩壊で、生活保護への慫慂はそうじゃない?都合がよすぎると思うのですが、この人たちはたちで、弱者の味方という万能感に酔っているのでしょうしね。どう思われますか。
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