機会があって上京して、初めて靖国神社を訪れました。写真や映像ではよく見ます、そのものずばりの映画もありました、毎年毎年国会議員の誰々が閣僚の誰々が参拝した、あなたは公人ですか私人ですかと判で押したような問答も耳タコなのですが、現地に立つと「おお」でした。大鳥居、広い参道、両脇にはうっそうの木立。神社創立150年記念だとの看板が目立ちます。大昔からある由緒正しい神社のように思ってますが(思ってませんか)まだ150年です。奈良の橿原神宮もそうです、神武天皇が八咫烏がどうしたという神社ですからさぞや歴史がと思わせますがこちらの明治に作られたものです、国策を感じることですが。石畳が続きます。さすがに白砂を敷き詰めてではありません。初夏の日差しは強かったですがど真ん中を歩きますと、大きな見上げるような銅像です。楠正成かと想像した(つまり知らないということなのですが)のでしたが、大村益次郎でした。ううむ、我が長州の先達、国民軍隊の父、明治早々に暗殺された人です。なるほど。そこを過ぎるともう一つ鳥居。多くの参拝客でしたが、鳥居の所で一礼して行く人が多いのです。二つ目の鳥居のすぐ奥に本殿です。賽銭箱がそこここの神社のように置いてあるのですが、ガシャガシャ鳴らす鈴はありません。薄暗い中奥まった本殿を覗くに、鏡がこちらに向けて置いてあるように思いました。荘厳です。周りには多くの人がいるのですが背筋が伸びました。もちろんこの神社の由緒由来を知るからです。明治維新時以降の内戦や日清日露役の戦没者、そして先の大戦で靖国で会おうと従容と死に赴いた若き兵士たちを祀る社です。厳粛な気持ちにならぬ方が不遜ですが、果たしてずずんと背筋が伸びました。首を垂れるのみという気持ちになりました。侵略戦争を支えた精神的な象徴として蛇蝎のように嫌う向きの多いことは知ってますが、しかし現に多くの命が国を守るために捧げられてきたことは事実です。靖国に英霊として祀られること、ここに帰って来られることをいかに虚構の思い込みだとはいえそう考えて諸々の思いを断ち切って逝った人達のことを思い遣り感謝する気持ちをどうして否定できようかとの実感です。その場所に佇むことの効果です。本殿から吹いてくる風に体が反応する感覚。私は十分にトンガリですから(今更断らずともおわかりでしょうが)勝手に感覚過敏のトランス状態を作ってるという批判もありましょうが、参拝して帰る時も鳥居の所で二度三度と振り返り一礼していく人の多いこと、そういう行為にまた感動しているわけです。現場の力です。だから人は行く。そこに行く。そこに連れて行く。百の言葉よりその場の空気。そうやって人心を操作して云々の非難はありましょうが、人を動かすのも鎮めるのも気持ちなんだと改めて感じることでした。
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