熊の被害が報じられてもう長いです、家に侵入してきた熊に婆様が殺されても拱手傍観しているのが行政ですが、今度は新聞配達してた52歳男が襲われて殺されてます、記事には熊が咥えて引き摺って行ったとあります。どうして殺さない?行政用語では駆除ですが(インフルエンザの鶏、狂牛病の牛は殺処分)、罠にかけて森に返すってのが正しい手続きのようで。こういう被害が出るたびに地元の猟友会ってのが呼ばれて辺りを見回るってのが定番ですが(見つからないのも定番、そばにいないから見回っているんでしょうという嫌味です)、揃いのジャケット着て銃を携えた爺さんへのインタビューが流れてました、撃てって?俺は撃たんよ。住宅街だから?いや、そもそも当たらないんだ。辺りの住宅や何かに誤射して後で問題になる方が嫌だと、正直でした。ああ、当たらないんだ。自分の家に撃ち込まれたら文句言うわな、そっちの方を行政は嫌がるから、熊のし放題。愛護協会だか何だかが人間の都合で殺すな、動物の命も同価値だとかなんとか噛みついてくるんでしょうが、現に殺されてるんですから殺し(駆除)なさいよ。同一個体と確認できるのかって?冤罪って?バカバカしい。平穏な毎日のための安全保障でしょうに、それこそあなた方の言う一番大切な命を守るための。
熊と一緒にしてはならぬのでしょうが、外国人に対しても同じことです。こっちは同じ人間ですからね、より同価値感同等観が強くなるのはわかりますが、現にあちこちでも問題になっていることです。まだ殺し合いとか暴動とかには発展してないのですが、文化文明の違い、具体的には日常生活上の秩序や所作、道徳観の違いです、これに辛抱ならぬというわけです。今次の参院選で支持を延ばしている参政党の日本人ファーストにまぁ左巻きさんたちが噛みつくことです。昨日は毎日新聞、今朝は朝日が社説でくどくど非難してます、どちらも排外主義との見出しで。内容は想像通りです、綺麗事ばかりです。差別の排除の誤解の偏見のとこれでもかと並べて、このPC全盛の多様性至上のご時勢です、正面切って反論はできぬだろうと高を括って中学生でも言いそうな生正論を照れることなく書いてます。で、まとめの言葉はこうです、差別を容認する社会ではいつ自分が差別される側になるかもしれない、その認識を持ちどのような社会を作るのか考えたいと(朝日7/13 社説)。おいおい、ここは日本ぞ。日本に住んでる日本人がどうして遠慮して気を遣って生きなければならぬのだ?毎日はその参政党代表が「高齢者女性は子供を産めない」などと発言したとかで抗議を受けてるとベタ記事です(毎日7/13 )。人口維持しようとするなら若い女性に子供を産んだ方が安心して暮らせると思わせる社会を作らないといけないのに働け働けとやりすぎた。もっとバランスをとるべきだ、との演説を受けて、女は出産育児、男は働くものと役割を固定する差別的な主張だとやられてます。はぁ、この反論具合もマンネリです、耳タコですね。男には産めないんですよ、若い女にしか産めないんですよ、事実でしょうに。昔石原慎太郎が閉経した女性(婆さん達)の無用論をぶって大叩きされてましたがそんな極端でも何でもない、ごくごく常識的なことでしょうにね。そして産経はそれを見越したかのように一面トップです、独「もう限界だ」移民拒否へ一転 と大見出しです。メルケルさんが移民を受け入れて受け入れての末の現況です。ナチスのあの原罪がありますから民族差別ということには殊更に過敏で、来たるものを拒まずという方針であったところがこういう顛末です。難民(移民)の数が増えるとコミュニティーが当然できて、治外法権風になるはどの国でもあることです、日本でもコリアンタウン、チャイナタウン、そして川口市のクルド人たち。これだけ踏んではならぬ轍が明らかなのに、どうして政策として進める要がありましょうや。どころか外人移住に制限かけるべきです。松尾貴史(元キッチュ、芸人、サンモニにもよく出てる左巻きさん)が自分のコラムで書いてます、日本人ファーストというフレーズを指して「国民の間で鬱積している不安、不満、困窮についての怒りの矛先を外国人に向ける道具としてこの言葉が用いられ」ていると。いやいや違うでしょう、もっと現実的な具体的な日常生活上のトラブルでしょうに(毎日7/13)。こうやって事を抽象化して嘆いてみせるのが左巻きさんの常套です、誰かの所為にするのもそう。参政党の支持が伸びるのもむべなるかなです。外人に対する怒りや不満が誰にもあるというわけです。やれ島国根性の鎖国指向のと揶揄する向きは多いのですが、それが日本人ですわ、日本の文化文明を引き継いできた気質ですから。