拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

正解発表(曲当てクイズ2023年第1弾)

2023-01-18 15:58:07 | 音楽

 

すなわち、ベートーヴェンのチェロソナタ第3番イ長調の第1楽章の冒頭でした。「出題」で弾いたピアノはこんな風にからんでくるんですよー。素敵でしょー?ここんとこを作りたかった。なに?お前が弾いたからちっとも素敵じゃないって?それにしても、私のしもやけの指に巻かれた絆創膏が痛々しい。さらに、今年の全問正解者なしがしょっぱなから確定してしまったのも痛い。因みに、お父ちゃん、すなわち朝ドラでお父ちゃんを演じた高橋克典さんは、あさイチに出演した際、将来弾いてみたい曲は?と聞かれて「バッハ」と答えてましたね。当然、無伴奏チェロ組曲ですね。多分、チェロをやってる人の大多数は、同じことを言うのではないだろうか。


プータローが板について絶好調の私

2023-01-18 09:58:13 | 日記

ガテンがいったことがある。昨年の不調についてである。昨年春に廃業した。自分としては、やることはやったし、以後仙人の生活なら維持できる自信があってのことだったが、サラリーマンが猛烈に働いた昭和の人間として、やはり仙人になる覚悟が足りていなかったのだろう、いまだ仕事にがんばる同年配がいるなか、どことなく居心地が悪く、それが心身の不調につながった、と推測していた。

その推測を確信に変えたのがチコちゃんである。人はなぜ天気が悪いと憂鬱になるかというと、古来、天気が悪いと働けないから、天気が悪いときは家でぼーっとなるように体ができている(そういう遺伝子を持った人が生き残ってきた)。ところが、産業革命により、お天気に関係なく働くようになると、体はお休みモードなのに頭では働かなければと考える。このギャップが人を憂鬱にさせるというのだ。それを私めにあてはめると、仕事をする体勢を放棄したにもかかわらず、頭ではやっぱ働かないとバチがあたるのかしらん、と考えている(昭和の人間である)。そのアンバランスが不調を生んだと考えられるのである。

ではなぜ現在絶好調なのか。それは、プータローが板についたの一言につきる。もはや、働かなければなどとは思わない(昭和の人間を脱却した)。だからアンバランスの「アン」がとれて、現在は良いバランスにある。

さらに、こういうことも言える。すなわち、ワタクシは、何も日がなひなたぼっこをしてぼーっとしているわけではない。こうやってブログを書いているし、ときどき人前で歌を歌うし、楽器の練習をして「曲当てクイズ」だって出題している(一昨日の出題に対しては、依然として一通の解答も送られてきてないが)。だが、その対価を得たことはない。日本では、対価を得ない活動をしても「……家」(……ist)とは認めない風潮がある。だが、そういう話なら、ゴッホは画家ではなかったことになる(ゴッホの絵は、生前1枚しか売れなかった)。だが、ゴッホが画家でなかったらいったい誰が画家を名乗れるのだろうか。そう考えれば、それこそお天気に関係なく毎日せっせとブログを書いているワタクシはまごうことのない「作家」である。

こうした積極的思考は、ウォーキング(低山登りを含む)がもたらしたと思っている。ウォーキングは血行をよくする。やはり血の巡りは大事だ。血が巡ってればしもやけにだってならないだろう(と言って、じっと手を見る。啄木か?)。反面、自転車はからきし乗ってないから、そっちの血行が心配である。錆びついてやしないだろうか……


泥棒猫1号発進!

2023-01-17 15:19:07 | 

 

コタツ基地から発信直前のウルトラキャット1号である。

この基地に潜むウルトラキャットは1号と2号。どちらも猫の種類は同じ。すなわち、泥棒猫である。

ウルトラ警備隊のウルトラホークは、ウルトラセブンと共に人類を怪獣から守るため基地を飛び立ったが、ウルトラキャッツが基地から出て狙うのは食料庫。荒らしてる最中に「こらぁ」と怒られるとこの基地に逃げ帰る。因みに、「こらぁ」は薩摩弁で「ちょっと」という呼びかけだったのだが、ご維新の際、全国に散らばった薩摩出身の警官の語調が強かったため、他人を叱るときの言葉として定着したそうだ(チコちゃん情報)。

ウルトラ警備隊の秘密基地が参考にしたのは、サンダーバードの秘密基地だと思われる。だが、ウルトラホークは機体がピカピカしていて、いかにもプラモデル風だったし、ジェット噴流が花火のようで、煙が上に上っていくのが興ざめだった。そこへ行くと、サンダーバードのメカは本物ぽかった、と言うのも、本物らしさを出すためこすってわざと傷をつけていたそうな。因みに、番組製作当時、世界はサンダーバードの秘密基地がどこにあるのか知る由もなかったが、衛星網が発達した現代ならばればれである。あと、秘密基地と言えば、規模は小さくなるが、大昔にテレビで放送していたバットマンシリーズでも、バットマンとロビンが車で出入りする秘密基地があった。逆に、あのような小規模な基地なら現代の衛星からでも見つかりにくいだろう。

以下は備忘録。ウルトラキャッツに荒らされて袋に穴が開いたので容器に移し替えた粉がなんだったか忘れるといけないので。

一番左がお好み焼き粉であとの3つが薄力粉である。

それから、昨日出題した「曲当てクイズ2023年第1弾」は、現時点で回答者がゼロである。その理由を探ってみた。
考えられる理由その1。お友達は合唱畑の人が多いので、ジャンル違いのため曲名が分からない。
考えられる理由その2。ばかばかしくて付き合ってられない。
考えられる理由その3。当ブログは、読んでもその足跡を残さないようにしている。回答すると読んでることがばれるから。

その3は大いに考えられる理由付けである。と言うのも、普段、まったく読者であることを匂わせない方々が、年賀状等で「体調はどうですか?」と聞かれるからだ。これは、不調を訴えた昨年秋口のブログを読んだからだと思われる。では、なぜ、足跡を残さないようにしてるのですか?それはね、「変な人とかかわりを持っちゃだめよ」と親から教えられたから、だそうだ。


曲当てクイズ2023年第1弾

2023-01-16 13:21:19 | 音楽

 

2023年の曲当てクイズ第1弾!私の曲当てクイズは別名「積立シリーズ」とも言っていて、楽器を重ねていって正解にたどりつくのだが、今回は、あともう一つ積み立てればそれが最終形である。すなわち、ある楽器のピアノ伴奏によるソナタである。今回はそのテイク1、すなわちピアノ伴奏部分である。
ヒントその1。冒頭からしばらく当該楽器のソロがあり、ピアノは6小節目の4拍目から入る(動画は、ピアノが入るところから)。
ヒントその2。「お父ちゃん」がプライベートで練習している楽器である。


♪しもやけおててがいたがゆい

2023-01-16 10:12:25 | 日記

私も料理ばさみをよく使うが、ピザ切りに使うことまでは思いつかなかった。あさイチの情報である。たかがテレビ、されどテレビ、である。

さて。指にできたおできについて、スターウォーズ・エピソードⅣでレイア姫率いる反乱軍がデススターの排気口を突いて一矢を報いたように、おできの開口部に化膿止めを注入して小康状態を得たことは書いた。だが、続くエピソードⅤの冒頭であっという間に勢力を挽回した帝国が反乱軍を追い詰めたように、この数日あっという間におできが赤く大きくなってきた。もはやこれまでと基地を捨て脱出した反乱軍のように、ワタクシも観念して皮膚科に行っておできを退治しよう(正確にいうと、退治するのは私ではなくお医者さんだから、「退治してもらう」が正しい。ドイツ語で言うならば「schlagen」ではなく「schlagen lassen」である。千一夜物語のドイツ語版を読んでてやたらと「lassen」が出てくるのは、主語のカリフやスルタンが自分では手を下さず、家来にさせるからである)。

皮膚科に行く道すがら、先生との想定問答をする。先生はぱっと見るなり「粉瘤ですね。とっときますか?麻酔を打つときちょっと痛いけど」「とってください」。で、処置が始まる。最中は決して患部を見るまい。頭の中でバッハかシューベルトを歌って気を紛らそう……

そうこうするうちに医院に着く。マイナンバーカードに合体させた保険証を試すチャンスである。ネットで手続をした際、保険証番号も何も打ち込まなくてホントに合体したのかどうか疑問だったのでいい機会である……と思ったら、受付で「当医院はまだ未対応なので、保険証をお出し下さい」だって。お預けだ。

で、いよいよ診察室に入る。先生に指を見せると、あらま、想定と異なり、先生は「むむっ」と言って、ルーペをとりだしてまじまじと見ている。そして出た言葉。

「しもやけですね」。

しもやけなら両手にたくさんできている。だが、件の「おでき」は明らかに別格だと思った。しもやけでも、おできのようになるのだろうか。あーしてこーなるとなる、と先生が仰った。大山鳴動して鼠一匹。しかし、お陰様で、この日、私が得たモノは多大であった。「しもやけの薬」「安心感」そして「歩数1万歩」である。そう、綾瀬駅前の医院にも徒歩で出かけたのである(一体、今後、私の自転車が使われることがあるのだろうか)。

思い起こせば、子供の頃、しもやけには無縁だった。11月になっても半袖で通学していたくらいである。毎朝始業前に校庭で「大勢鬼」(鬼ごっこの一種)で走り回っていて、血の巡りが良かったのだろう。最近のウォーキングだって、終えて帰宅すると体がぽかぽかしてるから血行に良いのが目に見えている。エアコンの設定温度を1度下げるくらいの効果は十分にある。始めたのは昨年の晩秋からだった。もっと早く始めていれば、しもやけにならずに済んだかもしれない(どころか、秋口の不調もなかったろう)。

ふと、唱歌が口をついた。♪しもやけおててがもうかゆい……痒いというより痛い。だから、♪しもやけおててがいたがゆい、と歌おう。それよりも、この歌を前から歌ってみると、さざんかの咲いた「道」で、「落ち葉焚き」とある。道で焚き火をしたらとっ捕まる。自分ちの庭であっても、公共の危険(つまり、周りへの延焼の危険)を生じさせたら放火罪である。

 


昔昔(ルネサンス・バロックとスターウォーズ)

2023-01-15 09:47:04 | 音楽

(承前)ルネサンス期に続くのがバロック期。「いびつな真珠」という言葉はやはり美術から来たそうな。なるほど、ルーベンスが描く人々は皆がてんこしゃんこ(あっちこっち)を向いている(ここで早くもコーヒーブレイク。子供の頃、家族みんなでルーベンスの画集を見ていて、母が「マサシはギリシャ神話を読んでるからこの絵が好きだそうだ」と言って無邪気に開いたその絵が裸の女性であふれていて、父はバツが悪い顔をして一言も発しなかった。コーヒーブレイクおしまい)。バロック音楽にも「いびつ」という言葉がぴったり。見事なハーモニーが曲を支配したルネサンス期の音楽がワールドカップで試合終了後にきちんと整理整頓された日本選手のロッカールームなら、バロック音楽は、校舎内をバイクで疾走するかの如し。例えば、モンテヴェルディの「オルフェオ」の冒頭、

トランペットの派手派手なこと!(Clarinoと書かれたパートがトランペットである。クラリネットの語源がトランペットであることが現れている)ルネサンス期には、こんなのはなかった。この冒頭のトランペットがオルフェオの開幕を告げるごとく、モンテヴェルディがバロック音楽の扉を開けたのである。

さて、バロック期に続くのが、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの古典派(ウィーン古典派)なのだが、私が大いに疑問なのはこの「古典派」という命名。「古典」とは「古い」ことであるが、古典派はちっとも古くない。その前に某大なバロック音楽とルネサンス音楽の世界がある。なのになぜ「古典派」と呼んだか。おそらく、犯人はロマン派あたりの人。古典派が自分たちより前で、かつ、それより前にどれほど絢爛豪華な古楽の世界が花開いていたかを知らなかったので、それで「古典派」と名付けたのではないか。いや、なかには「古典派」はやめて「ウィーン楽派」にしたらどうか、と提案した人もいたそうだが、そうすると、近代の「ウィーン楽派」とかぶるので、その案はボツになったそうだ。

遠い昔に、現代とは全然異なる素晴らしい世界が広がっていた、と言えば、スターウォーズがまさにそうである。冒頭、沈黙の中にスクリーンに現れる「A long time ago……」。え?スペースモノなのに未来じゃなくて昔なの?と思った矢先に、レイア姫が乗った宇宙船を追う巨大な帝国の宇宙戦艦(スターデストロイヤー)がスクリーンを被う。第1作の冒頭である。ジョン・ウィリアムズの音楽と相まって、完全に「つかみはOK」。この瞬間に、観客達のその後半世紀にわたる「スターウォーズとともにある人生」が決定づけられたのである。

因んだ話その1。日本昔話は「むかしむかし」で始まる。同様に、ドイツのおとぎ話は「Es war einmal」で始まる。

その2。スペースモノは、スターウォーズ以外は未来の話と相場が決まっている。「スタートレック」もそうである。「2001年宇宙の旅」だって製作当時は未来の話だった。その後時代が追いついた(木星への有人飛行は実現してないから科学技術は追いつかなかったが)。それを言うなら「謎の円盤UFO」は1980年が舞台で、今を基準とすれば「昔昔」の物語だが放送は1970年だったから、一応未来の話であった。


ル・ネサンスな音楽(湯・ネサンスな温泉)

2023-01-14 12:06:45 | 音楽

ルネサンス期の合唱曲を歌うのは心地よい。声が自然に出る。そもそも、この時代のアルトはカウンターテナーが歌っていた。だから、曲との相性が良いのは当然である(筆者はカウンターテナーである)。

ところで、一口にルネサンス音楽と言うが、その正体はなんだろう?もともと、ルネサンスとは、フランス語の「ル・ネサンス」=「再+誕生」であり、人間性を押さえ込んでいた中世から脱却して、芸術において本来の人間性を蘇らそうという運動である。例えば、中世時代の絵画において人間は無表情で動きがないが、

ルネサンス期のダ・ヴィンチは、解剖によって人間の骨格を研究し、そこから学んだ人間の自然な動きを絵画に活かした。だが、ルネサンス音楽となると、ときの作曲家は特に「復興」を意識して作曲しておらず、単に、ルネサンス期の音楽だからルネサンス音楽と呼ばれるだけ、と言われることがある。だが、私などは、やはり、音楽においても、意識されたかどうかはともかくとして、その内容は「ル・ネサンス」である、と思う。それは以下のように考えるからである。

太古、ギリシャ時代には豊かな音楽文化が花開いていた。だが、中世になって、教会音楽は単旋律になった。きれいなもの=耳目を愉しませるもの=気持ちのいいものは信仰の妨げになると考えられたからである。楽器も、そういう観点から教会での使用が禁止された。だが、そうは言っても、元来、人間は快楽好きである(プラトンが説く「エロス」は美しいものを求める欲求である)。そうそう単旋律で我慢していられない。まず五度(ドレミファソのソ)の対旋律が現れた。さらに、当時不協和音とされていた三度(ドレミのミ)も加わった。声部も増えて、ポリフォニー(多声部)の音楽が開花した。これがルネサンス音楽である。だとすると、中世において、人間が欲する形態とは違うカタチに封印されてきた音楽が、本来の美しいもの=聴いて気持ちのいいものに再生されたのだから、まさに「ル・ネサンス」と言うに相応しい、と考えるのである。

因みに、古いカセットのデータ化をやってたら、どこかの合唱団の練習風景を録ったヤツが出てきた。そこで鳴っている若干プリミティヴな和音は五度。時代的には三度が登場するちょっと前、中世からルネサンス期に至る途中あたりである。こんな時代の音楽を歌う合唱団が身近にあったっけ?あった!SM合唱団だ!創始者のオルガニストが同団を去った後、別の指導者のもとで、一時期このあたりの音楽を歌っていた。私はこの頃、同団からほとんど足を洗っていたのだが、一回合宿に行ったことがあった。そのときの録音だろう。同団は、この曲をひっさげてコンクールに出た(私は参加しなかったが)。一等賞はとれなかったけど、審査員の中でただひとり、皆川達夫先生だけが絶賛されたという話を聞いたっけ。

さらに、デュファイのミサ曲(アヴェ・レジナ・チェロールム)の録音も出てきた(デュファイこそはルネサンス音楽のパイオニアである)。これは一聴してSM合唱団と分かった。グローリアとクレドの先唱が私の声だったから。

因みに、上掲の写真は、中世の吟遊詩人のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの肖像画である。1300年頃の作というから、中世絵画の範疇だろうが少し表情があって来るルネンサンスを予告してるかのよう。この詩人はヴァーグナーのマイスタージンガーにその名前が出てくる人で、いっとき私が当ブログのタイトルをころころ変えてた頃、一瞬、その名を名乗ったことがあり、その際、フェイスブックのプロフィール写真に同人の肖像画を採用したのだが、タイトルを昔ながらのバロン・オックスに戻した後も写真を変更しないでいた。このたび、ようやくフェイスブックのプロフィール写真もバロン・オックスにして、ブログのタイトルと歩調を合わせることができた。その写真がこれである。

バロン・オックスらしく、人間味があふれている。因みに、「オックスの人間性」とは、「食好き」「酒好き」「女好き」である。

そう言えば、箱根駅伝の通り道に、ユネッサンという温泉施設がある。「湯」+「ネサン」=「湯の誕生」ということか。上手いこと名付けたものだが、語尾の「ス」はどこに行ったんだろう。


葛飾

2023-01-13 09:17:54 | 言葉

「英雄達の選択」で森鴎外を特集していた。森鴎外の人となりが分かるいい番組だったが、鴎外を追いかけて日本まで来たドイツ人の彼女のことが全く紹介されなかったことが悔やまれる。かように、「歴史」は客観でなく主観である。すなわち、数多ある歴史上の事実の取捨選択には編者の主観が入る。件のドイツ人彼女との件は、番組のディレクターにとっては不要な事実であり、視聴者のワタクシにとっては必須の事実である(「ドイツ人彼女」に類した話題は、合唱団の反省会においても、ワタクシにとって必須の事実である)。

本題に入る前に、前提として以下のことをおさえておきたい。プータローになる前、仕事で昔の戸籍を見ることが多かったが、本籍地の「○葛飾郡」の次に現在の千葉、茨城、埼玉の町村名が続く例をよく見た。そう、古く「葛飾」は、北総、常陸、武蔵の一部を包括していたのである。以下、「葛飾区」と書かずにただ「葛飾」と書いた場合は、包括的意味であると心得ておかれたい(なぜか、今回は文体が真面目。森鴎外が乗り移ったのだろうか。ふと宇能鴻一郎が湧いてきて「あたしったら」と書きたい虫がうずいてくるが封印しよう)。

ということで本題。私が、食べ物の「くず」(「くずきり」の「くず」)を「葛」と書くことを知ったのはつい最近である。そうか、葛飾ではくずがたくさんとれたんだな、と思う私は「浅知恵」の塊である。葛飾という地名の由来は、葛飾区のホームページに書いてあった。すなわち、「かつ」は丘や崖を指し「しか」は砂州などの低地を指すところ、旧葛飾郡を流れる利根川の左岸に台地が広がり右岸に低地が広がるところから「かつしか」と呼ばれるようになった、ということである。因みに、食べ物の「葛(くず)」の名前の由来は、もともとの日本語が「くず」であり、「葛」は中国名だそうだ。

そう言えば、ウチにくずきりがあった。

以前の朝ラーメンは、朝うどんに代わり、この年末年始は餅に代えて雑煮にしていたが、餅の代わりにくずきりを入れよう。

なかなかの弾力性。ほとんど歯でかみ切れない。後は胃酸に任せよう。因みに、くずきりを買ったきっかけは、P合唱団の練習後の反省会で、最初に必ずくずきりサラダを注文していて(最近、おじゃましているOという合唱団の反省会では、最後に必ず皿うどんを注文する)、それを家でも食してみたかったのである。ってことは、買ったのは30年前か。まあ、こんなものには賞味期限もへったくれもないから(ホントはあるらしいが)、へっちゃらである。

葛飾談義おまけその1。サラリーマンだった頃の私の住所は「葛飾区柴又」だった。かように、寅さんが口上で述べる「葛飾柴又」は架空の地名ではない。

葛飾談義おまけその2。え?もしかして葛飾北斎は葛飾出身?当たりであった。因みに、レオナルド・ダ・ヴィンチはヴィンチ村出身だし、ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナはパレストリーナ村出身だし、焼津の半次は焼津の出身である(だが、半次を演じた名優・品川隆二は、品川出身ではない(山梨出身である))。以上の例とは異なり、ジョスカン・デ・プレの「プレ」は特定の地名ではなく、「大草原(プレーリー)の小さな家」の「プレーリー」と同様、「草原」「牧場」の意味である。ジョスカン・デ・プレが「牧場のジョスカン」と呼ばれる所以である(ホントにそう呼ばれてたっけ?と思ってググってみた。ほら、ヒットしたぞ。と思ったら、当ブログだった)。


不幸のカタチ

2023-01-12 09:14:04 | 日記

朝ドラでリストラのシーンが流れる。クビを切る方も切られる方も不幸である。「悪い人が一人もいないだけに辛い」と言った朝ドラ受けの大吉さんの言に賛成である(この発言は、悪い人ばかり出てきた前作に対する当てこすりだと言ったら下司の勘ぐりだろうか)。因みに、幸せはどれも似てるが不幸の形態はまちまちと書いたのはトルストイ(「アンナ・カレーニナ」の冒頭)。その「まちまち」の中でも、予想してなかった不幸=青天の霹靂はとりわけ辛いだろう。

「青天の霹靂」で忘れられないのは、私がまだサラリーマンだった頃(20代前半)、出社途中に「本日開店」の美容室があった。花輪が出て「さあ、これから!」という意気込みが感じられた。夕方、その場所を通ると火事で焼けていた。焼け残った塀に「ご迷惑をおかけしました。被害が及んだ方はご連絡ください」との貼り紙があった。さらに遡ること15年。私が小学校に登校する途中、道に屋台を出してなんとか焼きを焼いているお兄さん達がいた。夕方、その場所を通るとお兄さん達はおまわりさんに囲まれてうなだれていた。必要な営業許可等をとってなかったのだろう。本人の過失等の責任の有無はともかくとして、まっこと「諸行無常」である。その他、どっかのワンマン社長が取締役会でまさかの解任決議をくらって「なぜだ?」と言ったとか、ホームランを打った長嶋選手がベースを踏み忘れてホームランが取り消されたとか、天皇賞秋で鞍上武豊のメジロマックイーンが一着でゴールしたのに他馬の進路を妨害したとしてビリに降着となったとか、青天の霹靂にはきりがない。

以上は人様の話。私にとっての最大の「晴天の霹靂」は、数年ぶりに一緒に暮らすことになったチロ(先代4匹のうちの1匹)がウチに戻ってきた日の翌朝死んだことである。享年19歳。

なかなかの美猫であった(食い意地ははっていたが)。その後、生後2か月でウチに来た今ニャンの2匹も、今、人間の歳にすると私と同じくらい。年月が経ったわけである。

 


さすらい(ではないと思う)

2023-01-11 08:55:47 | 音楽

NHKの「犬育て猫育て#6」の再放送を見た。ヴォランティアさんが預かる子猫に脳障害がありご飯を食べない。結末は見えていて慟哭を禁じえない。もはや反則である……と思ってるところに、ニャー(ねー)、ニャニャニャー(よそんちの猫見て泣いてる暇があったら)、グルワー(あたいたちにご飯ちょうだいよ)との催促。そうだ、普段、おみゃーらのことを「泥棒猫」とか呼んでるが、ご飯を食べてくれるだけありがたいと思わなきゃね。

同じくNHKのあさイチの今朝の放送で、冬場に毛細血管が消失して不調になる話をしていた。他人事ではない。私は、冬場、手の指が氷のようになる。明らかに毛細血管が消失している。暖房をけちってるからかもしれない。わが家のエアコンの設定温度はドイツ政府ご推奨の19度である。それで寒くないかって?寒い。だから手指が冷えて、しもやけにもなるし、おできもできるのであろう。まさに、なんとかの冷や水。反省。設定温度を上げた。20度。暖かーい!

さて。シューベルトの歌曲集「美しき水車屋の娘」の第1曲の話である。タイトルは「Das Wandern」。「さすらい」と訳されている。この訳ではたしてよいのだろうか。「さすらう」の意味を大辞林で調べると、「目的地を定めず、あてもなく歩き回る」とある。ボケ老人の徘徊のイメージである。それに対し、「Wandern」は、たしかに「さまよう」「流浪する」の意味もあるが、「ハイキングをする」「徒歩旅行をする」のようにしっかり目的地を定め、大地を踏みしめて歩く意味もある。はたして、この曲の「Wandern」はどうだろうか?歌詞は「Wandernは粉屋の愉しみ」で始まる。おお!愉しみならハイキングだってありだ(補注1。「Müller」を「粉屋」と書いたが、「水車屋」の意味もある。粉屋は水車で粉を挽いたから水車屋でもあるのである。補注2。「ハイキング」には低山登山も入る。高尾山登山なども含まれる。だから、先週、私が相模湖から城山を経て高尾山まで歩いたのなどは典型的な「Wandern」である)。しかも、このいきいきとしたピアノ伴奏を見よ!

あてもなくぶらぶら彷徨う風ではない。早足で低山をざくざく進む、まさにハイキングの風である。だが、早とちりは禁物。もう少し先を読もう。

「Wandernが嫌いな粉屋は悪い粉屋」とまで言っている。いくらなんでも趣味まで強要されて、粉屋はみな休日にハイキングをしなければならないってことはないだろう。参考になるのはドイツの職人史である。ドイツの職人の卵が親方んとこで修行をしてある程度の腕になると、たいがい修行の旅に出て腕を磨く(グリム童話に出てくる若者もみんなそうである)。どうやらそれっぽい。すると、この場合の「Wandern」は、たしかに具体的な行き先は決まってないが、「別の粉屋」(新たな修業先)という目的はあるから、少なくともボケ老人の徘徊とはまるっきり異なる。だったら「さすらい」と言うよりも「遍歴の旅」である。

そして、歌詞の最後は「親方ー、おくさーん、ボクを行かせて!」。まさに、旅に出して!である。「さすらい」は「冬の旅」の第1曲にこそに相応しい(タイトルは「おやすみ」だが)。ピアノ伴奏もとぼとぼ歩く風である。

因みに、ワタクシの次なるWandernだが、先々週、先週と連闘で、さすがに疲労が残ってる感じ。しかも、次回は、やはり高尾あたりを狙ってるのだが、6時間半の長丁場を予定しているので、今週は英気を養うために家にいて「Das Wandern」は歌にとどめておくつもりである。


影武者は表武者?

2023-01-10 09:57:26 | 音楽

「影武者」は、本人に代わって表に出てるんだから「表武者」なのではないか?なーんてことを、BSで放送した黒澤明監督の「影武者」を見て思った。このような屁理屈を言う人は世界中にいるものであり、フライブルクのドイツ語学校のザビーネ先生は、雇い主のことを「Arbeitgeber」(仕事を与える人)、雇われ人のことを「Arbeitnehmer」(仕事をとる人)と言うのはおかしい、逆である、と言い張っていた。なるほど、「Arbeit」を「労働力」の意味に解せば、労働力を提供するのは雇われ人であり、それを受け取る方こそ雇い主である。ザビーネ先生は、こういう話を始めると夢中になり、終業のチャイムが鳴ると、教科書を机にばーんと叩きつけて「O!Nein!」(Oh!No!)と言うような人だったから、文法をきちっと習いたいと思ってる生徒(外国人の生徒はたいがいそう)にはウケが悪かったが、私とは当然ながら気が合った。

その映画の「影武者」の予告編では、影武者が居並ぶ侍の前を馬で疾走するシーンのBGMが軽騎兵序曲だったのだが、本編では、作曲担当の人のオリジナルに代わっていた。そう言えば、「さよならジュピター」という映画の予告編で流れたのはシューベルトの「ザ・グレイト」の第4楽章で(古関裕而作曲の「紺碧の空」がそっくりだと囁かれているのは第1楽章)、それを聞きたくて本編を見に行ったら別の音楽に差し替えられていた。騙された気分だった。予告編のときは作曲が間に合ってないのでクラシックを使う、ということが普通に行われているのだろうか。それが慣習として許されているのだろうか。どうもそのようである。このことについて、私以外で文句を言ってる人を聞いたことがない。因みに、この「さよならジュピター」は、スターウォーズ並みの特撮を国産映画で!という触れ込みだったのだが、私の評点は10点満点中1点である。

スターウォーズと言えば、年末、筑波山を登った帰りにバスから見えた雲のうち、中央やや下で左右に長く伸びてるヤツ(三角形の底辺を形作ってるヤツ)が、スター・デストロイヤー(帝国の戦艦)に見えた。

と思ったら、FBのお友達が都内で撮った写真にも同じ雲が映っていた。空は一つなんだなー、と思った(だから、シュッツの合唱曲の歌詞が「Die Himmel」(もろもろの天(複数))と言ってるのが不思議なのである)。

昨日のBSは、午後の「影武者」に続き、夜は「ロミオとジュリエット」(映画)を放送していた。ディカプリオが出てる新しい方である。私などは、「ロミジュリ」と言えば半世紀前のゼッフィレッリ監督のヤツを真っ先に思い浮かべる。そのゼッフィレッリのロミジュリで最近事件が起きた。主役の二人が、勝手に裸を撮られたと言って映画会社を提訴したのだ。うん、たしかにジュリエットのオリヴィア・ハッセーはバストが露わになる。ロミオのレナート・ホワイティングは裸になったっけ?なったなった、裸のお尻が映っていた。これらのシーンは、実は俳優には「カメラには写らない」と言って撮ったシーンなのだそうだ。だが、映画が公開されたのは半世紀前。時効はどうなのだろうか。この騒動が原因となって、今後、この映画の映像から件のシーンがカットされることがあるだろうか。「裸のお尻」と言えば、映画「ザ・マジックアワー」で西田敏行も披露しているが、こちらは裁判沙汰にはなってない模様である(自発的?)。

こんな風に、なんだかんだ言って年末年始はそこそこテレビを見ていて、そのなかに生物の進化を扱った番組があった。進化とは、ある特殊な能力を持った突然変異が生まれてそれが環境に適合すると従来種を抑えて子孫をたくさん残し優勢になる、ということだった。すると「生物は特殊な能力を獲得してきました」と言っても、別に既存の個体が奮闘努力して獲得したわけではない。努力は徒労、これこそが進化の奥義であろうか。因みに、モノが落ちるのをニュートンのせいにしてはいけないのと同様、生物の進化をダーウィンの功績にしてはいけない。「進化論」があろうがなかろうが生物は進化を続けてきたのである。

 


マサシのクレド

2023-01-09 09:41:00 | 音楽

一昨日、久々に作った餃子。材料は、豚肉挽肉とキャベツのレギュラー陣に毎回ゲストが加わる。そのゲスト、一般的にはニラ、私的にはこれまでは大葉だったが値上がったので、代わりに売るほど冷凍庫に眠ってる自家製バジルを使った。レギュラーだってうかうかしていられない。値上がった豚肉の代わりに鶏の、しかも胸肉の挽肉を使う日が刻一刻と迫っている。もう一つ、検討が必要なのが皿。並べた餃子の円周よりわずかに小さい。だが、わが家にあるこれより一回り大きい大きいヤツはフライパンにかぶせるとき端がひっかかる。間のサイズの皿が欲しいのだが贅沢を言ったらバチが当たるか。小さいパンツをムリしてはくごとく、小さい皿を使い続けよう。

かようにケチっていても、例えば昨夜のU会の反省会で「はい、飲んだ人は5000円」と声がかかったとき、それは誰あろう私に対する通告である。節約したってそんなに飲んでたら元も子もない?そもそも「飲むために」けちっているのである。飲まなかったら、なんのための歌であろうか。歌と酒はセットである。Jシュトラウスのワルツにも「酒、歌」(下記参照)というのがある。とは言いつつ、5000円を、10円20円の節約で償却するのは大変である。いくらスーパーが価格維持に奮闘努力しても円安によって努力が一瞬にして無になるごとしである(ただし、円安にも歯止めがかかりそうな昨今ではある)。

「酒、歌」と書いたワルツのタイトルは、ホントは「歌、○、酒」だが、「○」は私には無縁だからカットした。「無縁」と言えば、上記の反省会で、フランス文学のO先生が、「イージマさん、つかぬことをお聞きしますが、ご家族は?」とお聞きになる。あれま。ご存じなかったのね。だから「30年近く前に、妻に逃げられまして」と応える。もしここに某お姉様がいらっしゃれば、「O先生、実はね」で詳細な解説が入るところであるが、残念なことに某お姉様は同席されておらなかったので、O先生の脳裏には私が申し上げた事実のみがインプットされた。よかよかばい!

因みに九州馬の「ヨカヨカ」は早々に引退し、近くお母さんになる。競馬界に新旧交代はつきものである。昨日のシンザン記念で勝ったライトクオンタムは、「男馬を蹴散らして勝った」「ディープインパクトの子供である」点で、わが愛しのジェンティルドンナとかぶるから以後注目しよう。だが、テレビ局が「ディープインパクトの最高傑作(最高の子供)へ」と言ってるのは気に食わん。ディープの最高傑作はジェンティルドンナである(あと、短距離ならグランアレグリア)。おかしなことを言い出したら、一瞬にして私はアンチになるからね。なお、「ライトクオンタム」は物理学で言う光量子のことだそう。「クオンタム」(quantum)は「量」を表すラテン語で、ルネサンスの宗教曲に出てきそうな言葉だが、その場合は「クワントゥム」と発音する。トスカがスカルピアに「いくら?」(いくら払えばカバラドッシを助けてくれる?)と聞くときの「Quanto」の語源であるのは明白。因みに、「いくら?」と聞かれたスカルピアはお金ではなくトスカ自身を求めて果物ナイフで刺されて絶命する。

いろいろ話が前後するが、昨夜、久しぶりに、わが家で一番体格のよい娘をU会に連れ出した。ソロ・コーナーで弾くためである。

この写真は、娘のタッパが私の頭上よりどれだけはみ出てるかを見るために撮った。天井の低い駅の構内だと、娘の頭がゴツンとあたるおそれがあるからである。そう言えば、大昔、渡辺謙が笑っていいとものテレフォンショッキングに出たとき、「子供を肩車すると、ときどき子供の頭が天井にあたる」みたいなことを言っていた。その「子供」とは当時まだ小さかった杏さんのことだろうと思っていたのだが、大さんという息子さんである可能性もある。因みに、渡辺謙さんは私より一個年下である。私の娘の話に戻る。やはり、ときどきは人前で弾くのも必要である(習い事の発表会も同じ意味で有意義なんだろうな)。で、上手くいったか下手に弾いたかは自分の心の中で自分自身で判断し、粛々と次に備える、それが最近の私の信条である(偶然、最後に「信条」が来たので、今回のタイトルとなった。ネタを自分でばらすのはみっともないが、あえて言うと、これは「イァーゴのクレド」(ヴェルディのオテロより)をぱくったものである)。


びっくり人形の第九~後藤美代子アナ~パヴァロッティ

2023-01-08 08:52:30 | 音楽

関東の芸人が「てめー、このやろー」と言ってるのを聞いて、「てめー」は「手前」=「temae」。「temae」を「テメ」と発音するのはフランス語風だと感心した。そう言えば、江戸幕府はフランスと仲良しだった。では上方では?「手前」は「自分」だから「じぶん、あほんだらー」ってとこか(「あほんだら」はそれこそ「このやろー」の超意訳である。直訳は思いつかなかった)。

大晦日にテレビで見た第九について、指揮者についてあれこれ書いたが肝心の演奏の感想を書いていなかったのでそのこと。大詰めのプレストが一瞬ゆっくりになる部分で、

弦楽器の32分音符に合唱が「-ner」とかぶせる部分がぴったり合っていた。ブラボー!これだけで満足である。え?指揮者についてあんなにぶつぶつ言ってたくせになんでここだけハードルが低いのかって?理由がある。私が小遣いで最初に買ったクラシックのレコードはベームの第九(ウィーンのシンフォニカの方。当時、普通のレコードは一枚2000円で廉価版が1000円だったところ、900円だった。店頭で、必死に小銭をかき集めて900円揃えたんだった)。盤面が真っ白くなるまで聴いた。そんなわけで、ひよこが最初に見た生き物を親鳥と思うように、私にとって第九と言えばベームだった。ところが、件の部分(「-ner」の部分)が合わない。合唱がつんのめった感じで先走る。現在、わが家にはこの演奏を含めて4種類の「ベームの第九」があるのだが、どれも判で押したようにここが合わない。想像するに、理由はベームのびっくり人形のような指揮である。いきなり棒をひょいと突き出す。オケの面々は慣れてるから、一呼吸置いて音を出すのだが、合唱の面々はいきなりだから勝手が分からない。ひょいと出された瞬間に「-ner」と言っちゃう。だからである、と推測している。とにかく、そんなわけで、私にとってここが合わないのがデフォルト。だから、合うと感動するのである(そう言えば、最後のプレストに入る前のソリストによる四重唱(ソプラノが最後に高いHを出す)の音程が合わないのがデフォルトって人もいた)。

そのベームのフィガロの結婚を昨夜聴いた(ベルリン・ドイツ・オペラを振ったヤツ)。MDデータ化作戦においてである。音源は、1988年のオペラアワー(FM番組)なのだが、冒頭、後藤美代子アナウンサーが珍しく、わずかにかんだ。あら珍しい、と思ったらワケが分かった。放送終了間際、「私事でございますが、長年オペラアワーを担当してまいりましたが、今回変わることになりました」だと。おおー、それが動揺につながったのだろうか。そう言えば、パヴァロッティのネモリーノ(ドニゼッティの「愛の妙薬」)を東京文化会館で聴いたとき、「オブリガート」と歌うところでとちって、あら珍しい……とは思わず、よくとちるのかなー、とか思ったらワケが分かった。もう一度同じメロディーを歌うところで「ありがーと」と歌ったのだ(これは直訳である)。パヴァロッティは、「この後、慣れない日本語で歌わなきゃいけない」ことで頭がいっぱいで、それでとちったのだろう。ワタクシなども、自宅で楽器の練習をしている最中に、スマホがポーンとか鳴ると、あらま、おデートのお誘いかしらん?と動揺した途端に間違えるものである(若干、フィクション)。

その日のパヴァロッティは、とちりはしたがまだ全盛期の声を維持していた。それから数年経ち、NHKホールでヴェルディのレクイエムのテノール・ソロをパヴァロッティが歌う公演のチケットが手に入った。NHKホールに向かう坂の途中、私の頭の中は、パヴァロッティの声で「きーりーえーーー、え、れーーーえれーえええいそーん」が鳴り響いていた。さあ、いよいよ開演。ところが、パヴァロッティがよたよたしてる。立ってるのもしんどそう。そして、実際に発した声は、私の頭の中で鳴ってた声とは別物だった。思えば、この頃はパヴァロッティの最晩年であった。それでも、終演後のステージ上で指揮者(レヴァイン)を差し置いて全員を仕切っていたのは貫禄であった。

第九のレコードの話に戻る。実は、そのお店では、他にも900円の第九を売っていた。コンヴィチュニー指揮のゲヴァントハウス管楽団の演奏である。だが、少年の私には、ベームもコンヴィチュニーも知らない人。ベーム盤の方がジャケットが立派だったのでそっちを買ったのだ(そのライナーノートの解説を書いてたのがカラヤン嫌いのUで、ベームの指揮なのにカラヤンの悪口ばかりだった)。その後、コンヴィチュニー盤はベートーヴェンの交響曲の全集をばら売りしたものだということを知った。その全集CDを購入したのは近年のこと。素晴らしい演奏!しかも、第九のバリトン・ソロはテオ・アダム!少年時代、こっちを選択してたら人生が変わったろうか。因みに、わが家のベームの4種のCD(レコード)のバリトン・ソロは、ゴットロープ・フリック、パウル・シェフラー(900円)、カール・リッダーブッシュ、そしてワルター・ベリー。ワルター・ベリーがバリトンを歌ってる演奏でテノール・ソロを歌ってるのはプラシド・ドミンゴである。

 


♪このーてだれのてきになるてPart3

2023-01-07 11:38:14 | 音楽

よくモノを落とす人がそれを重力のせいにしたら責任転嫁である。さらにニュートンのせいにしたら利口ぶったバカである。

「高気圧」と言うべきところで「高血圧」と言ってしまった。とか言いながら、血圧測定は既にマイブームでなくなっている。ふと思い出して測ってみたら上が125だった。なんだ低いじゃん。

血圧に限らず山歩きのおかげですっかり健康になった私。とか言いながら、やはりボディには経年劣化が見られる。こないだは指におできができて腫れた。中央に小さな穴(噴火口)が開いてるから昔こめかみにできたヤツと同じらしい。そのとき皮膚科で処方してもらった化膿止めの塗り薬がとっぷり残ってるからそれをつけよう。本来、皮膚内部の炎症に塗り薬は届かない。だが、好都合なのが件の噴火口。ここから薬が患部にしみ込むことを期待する。2日経って絆創膏をとったら富士山のようだった腫れが新宿区の箱根山くらいに縮小し、炎症がもたらす赤みがきれいになくなっていた。因みに、今回の作戦は、スターウォーズ・エピソードⅣで、デススターの排気口に狙いを定めた反乱軍の作戦にヒントを得たものである。

ということで、今回のメインテーマである。

♪このーてだれのてきになるて……このシリーズも今回で3回目。今回はあっさりと正解をお教えしよう。

間違ってはいけない。正解は右の美女であり、左の人ではない。
もう一つ間違ってはいけない。左の人は私ではない。M坂さんである。
私はこうである。

世を忍んでいるから素顔は写さない(写させない)。因みに、M坂さんに、上記の写真のブログ掲載の許諾を求めたら「自分にも写真を送ること」が条件と言う。え?写真を送らなければ載せちゃだめなの?と聞くと「い、いや、そんなことはない……」。そりゃそうだ。この写真はM坂さんにとって名誉以外の何物でもない。逆に、掲載料を請求してしかるべきだった。それを美女と山分けして別の機会の飲み代に充てる……大丈夫!M坂さんはシャレの通じるオトナである。


こんにゃくが呼ぶパパゲーナ

2023-01-06 10:08:39 | 日記

いっとき冷蔵庫の一段を占拠していた卵がいよいよ今日の一個をもってラスト。近所のスーパーが99円セールをやめたから補充がない。奢れるモノ久しからず、盛者必衰の理をあらわす(注:奢れるモノ=冷蔵庫の中の卵)。

ジャンボパックにいっぱいつまった豚肉細切れが底を突いた。近所のスーパーが値上げをしたから補充がない。奢れるモノ久しからず、盛者必衰の理をあらわす(注:奢れるモノ=冷蔵庫の中の豚肉)。

代わって冷蔵庫の中に居場所を見いだしつつあるのが鶏肉。ここにも値上げの波は来ているが豚肉よりは安い。おお!卵の代わりに鶏肉か!親が子の身代わりになったか!

親と言えば、あさイチに市村正親が出ていて、子供の弁当を作ってる話をしていた。実は、私が中学校の卒業文集に寄せた作文は母が作ってくれた弁当の話だった。おお!さすがに普段憎まれ口をきいていても、やはり親には感謝をしてて、その感謝の念を文にしたのかって?内心はその通りである。だが、表面上のテーマは「こんにゃく」だった。すなわち、私は当時こんにゃくが嫌い、だが、母は腸を掃除するとか言ってこんにゃくを弁当箱に詰め込んだ、私はそれをよけて食べた、それに対し、私の母は、味付けを変えるとか、切り刻んで分からなくするとかの小細工を用いる人間ではない、数で押し切る作戦に出て、以前と同様の風情のこんにゃくが3倍になって弁当箱を占拠していた……という話である。どう?感動的でしょ?これで私のこんにゃく嫌いが定着し、それは30年後にマンナンライフの蒟蒻畑を体験するまで続いた(30年という年月は、スターウォーズにおいて帝国が銀河を支配した年月と同様である。マンナンライフの蒟蒻畑は、銀河にとってのルーク・スカイウォーカーのように、私にとっての「新たな希望」であった)。

かように子供は親が念じた通りには育たない。元投手の江川卓氏は、ご幼少のみぎり、お父上に背負わされたまま崖下を覗かされ、それが原因で高所恐怖症になった。お父上は息子に根性を植え付けようとでも思ったのだろうか。逆効果であった。だが、そうやって高い所が苦手になった江川氏が飛行機内で青くなっていたのを優しく介抱したCA嬢が後の奥様になられたというのだから、因果関係的に言うならば、お父上の行為があったればこそ今の奥様とご結婚されたのである。であるならば、こんにゃくが私に未来のパートナーを連れてくるのかもしれない。だからと言って、スーパーのこんにゃく売り場で物欲しそうな顔をしてうろついていたら、不審な客として通報されそうである(第九のことを書こうと思ってたのに、こんにゃくの話で筆が進んでしまい、第九の出番がなくなった。第九の話はまた別の機会に)。