麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第418回)

2014-02-08 05:41:12 | Weblog
2月8日

疲れています。

何週間か前に書いたものを貼り付けます。



ツァラトゥストラについていろいろ考えました。考えているのはとてもおもしろい。ひとつ思ったのは、ニーチェは西洋人として、仏教の一面だけを見てこの宗教(私は哲学だと思いますが)を否定していますが、翻訳とはいえ「ブッダのことば(スッタニパータ)」を原典に近い形で読める東洋人としては、ブッダのほうがニーチェより深いところも多々あると感じること。

「スッタニパータ」の「大いなる章」の「二種の観察」という節は、完全に哲学書になっています。ここでブッダは、苦しみを消滅させる方法を説くのに、まず苦しみの本体を「苦しみがあるのは苦しむ材料があるから」「苦しみがあるのはちゃんとした認識ができていないから」「苦しみがあるのは人間の主観の表象能力があるから」「苦しみがあるのは接触があるから」などとさまざまな切り口で展開してみせます(もっとたくさんあります)。

最初の観察の仕方は、箱の中にビンなどが並んでいる感じですよね。このひとつひとつを捨てる作業をすれば箱は空になる。つぎは、頭がぼんやりしていて、目の前にもつれた電気コードがあるような感じです。意識的に近視眼的になり、まずはどれかひとつ、もつれをほぐすことに集中する。次々にそうしていけばやがてもつれはなくなる。三つ目は、一度心を停止して、表象を作る作業をしようとする自分の電源を切ってやれば苦しみという表象も消える。つまり映画のDVDを一度停めるようなものでしょう。最後の切り口で観察した場合は、人との接触を断ち、ひとりになることで苦しみを消滅させる。苦しみの中には、「接触によって愛着が生まれ、それが原因になる」という種類の苦しみがあるのは誰でも知るところです(ちなみに「苦しみ」を「世界」という言葉に変えれば、これらの作業で世界は消滅します)。

ブッダはこういう切り口を、話をする相手の性質に合わせて使ったのでしょう。

これは、まあ、世間では「主観的真理」と呼ばれる類のものでしょう。

「永遠回帰」は、主観的真理です。しかし、「超人」は、半ば客観的な存在です。そこにニーチェの矛盾がある。「超人になれ」と呼びかけても、その「心がけ」だけで人間が客観的に進化を遂げるとはとても思えません。ならば呼びかけはただの呼びかけで、「超人になる、くらいの気概をもって今日を生きよう」という、どこかの会社の社訓のようになってしまう。過去を「われ欲す」で解釈しなおしたとしても同様です。

もしニーチェが、「くだらない人間たちに囲まれて生きるのが苦しいのです」(ニーチェの悩みの核心は結局その意識だと思います)と、ブッダに人生相談をしたら、やはりブッダは、その風貌や口調から一瞬でニーチェの性質を見抜き、「あなたがくだらないと感じる人たちはサルのままでいるのを選んだと考え、あなたは超人への道を歩んでいると考えればいいでしょう」と、彼にもっともふさわしいたとえ話で癒やしてくれたかもしれません。

しかし、まあ、もちろんそんなことも、ニーチェは自分でわかっていたことでしょう。だからこそ巻頭に「すべての人のための、また誰のためでもない本」と書いたのでしょう。自分の人生相談に自分で答えた。それがツァラトゥストラであり、読んで価値のある本のすべてはそういう本なのだと思います。

そういうことなどを考えました。

コメント
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