マリアテレジアの独り言

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『死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。』・・・放蕩息子の帰還

2018-03-04 04:18:05 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。
   『放蕩息子の帰還』
 
『神のあわれみ』         レンブラント作品

『今日の福音』

     イエス・キリストが語った『神のあわれみ深さ』
       父親と二人の息子の『たとえ話』です。


まずは。

息子・弟。


親が健在なうちに、財産の分け前の生前分与を請求します。 父は息子の要求通りに与えました。
そして、
生前分与を受けた息子は、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くします。
 
『ご満悦の息子・弟』

  息子・弟は、家の仕事をしたくない。 『お父さんと一緒の生活の楽しみ』を知らないのです。
  お父さんは、子供を止めることはしません。 『子供の自由』を認めているのです。



 『何もかも使い果たしたとき、
その地方に大飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その地方に住むある人の所に身を寄せたところ、その人は豚の世話をさせた。』
 
『ユダヤ人が嫌う豚』

『彼は豚の食べるいなご豆を食べても腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は、我に返って言った、

「父のところでは、あんなに大勢の雇人に、有り余るほどパンがるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
ここをたち、父のところに行って言おう。

   「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
    もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

そして、彼は、そこをたち、父親のもとに行った。』


     息子・弟は、
困って初めて、『故郷の幸せな生活』を思い出しました。 父の元に帰りたいと考えます。
しかし、息子は、まだ『父の無条件の愛』には気づかず、その『改心』は、不十分のものです。
赦してもらいたいとは思い浮かばず、おわびをしたい。 更に、『雇人にしてもらってパンを食べたい』と願うのです。


息子・弟は、全財産を使って放蕩三昧の後に・・・故郷・父のもとに帰ってくるのです。


次に。

父親。


息子・弟の『生前財産分与』の要求通りに、
財産を息子二人に分けてやったのです。 その使い方は息子にまかせるのです。

そんな父は、
『ところが、まだ遠くに離れていたのに、息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って
 
    首を抱き、接吻した。』
    
    『父の愛』


   父は帰ってきた息子を見ると・・・走りよってだきよせる。 
 『息子の悔い改めの言葉』に先行して『父の赦し』 があったのです。

      事実において・・・
  罪人・私たちの改心の前に、『神の赦し』は現存するのです。


 

『しかし、父親は僕たちに言った。
「急いで一番良い服を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」
 

    「それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。」
 
『盛大な祝宴』


「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」
                  そして、祝宴を始めた。」

  息子・弟は、
家に帰り、考えていた以上に父親から迎え入れられたのに驚き、はじめて、『父の無限の深い愛』に気づくのです。
はじめて、『本当の改心』ができました。どれ程父親を悲しませていたか、気づいたのです。


もう一人。
最後に。


息子・兄。


兄は、無駄遣いなどすることもなかったでしょう。 まじめに、立派に、父の元で仕事に精を出す毎日でした。

ところが、『盛大な宴会』について、僕から聞いた兄は、
『怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。』
 
『息子・兄をなだめる父』

『しかし、兄は父親に言った。

「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。
それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
ところが、
あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、
    肥えた子牛を屠っておやりになる。」

すると、父親は言った。

「子よ、御前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。

   祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」』

     以上。 ルカ福音書 15章11-32節


  兄は、
父親に『不満』をぶつけます。放蕩のかぎりを尽くし財産を無駄にした弟を軽蔑します。
兄も、弟同様に、父親の『無条件の愛』に気づいていないのです。

兄は、父親からすでにもらっている『生前財産贈与』で、自分で子牛を買って、友人のために『宴会』を開かなかったのでしょうか?

  そこで、父親は、兄をたしなめて 兄にやさしく、語りかけます。

 「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。私の物はお前のものだ。 その幸せに気づかないのか?
  更に、
お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。 その喜びに気づかないのか?」と。



以上。
     『放蕩息子の帰還』のたとえ話
  『完全なる小品』 『短編物語中の最高傑作』 『福音書の中の真珠』 

   ・・・と言われるそうです。 納得しますよね。


 このたとえ話の『主題』 は 『神に逆らった罪人を迎え入れてくださる神のあわれみ深さ』 です。
  
  『人類すべての人に平等の愛を示す御父・神』

     『父親』は『神』。 『弟:放蕩息子』は『罪人である人間』。
『兄』は『律法に忠実で善良な人』であり『律法に忠実な人が陥りやすい傲慢さ』
 でもあります。

  『たとえ話』は、息子・兄弟の、『父への答』は書かれていません。
  『たとえ話』を聞いた私たちに、聖書は問いかけるのです。 あなたはどのような『返事』をしますか?

  あなたは、『神の無限の愛』を信じますか? 『神が与える自由』をどのように使いますか?

『今日・4月3日の叙唱』


『聖なる父よ、感謝の祈りをささげます。
あなたは信じる民の回心を望み、この恵みの時をお定めになり、
過ぎゆくこの世にあるわたしたちが心のおごりを捨て、永遠に変わることのないものをもとめるよう導かれます。』

皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
たとえ話しは、理解して頭では易しいのですが、腑に落として心には厳しいものですね。 今日もお元気で!

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