マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

オンライン・聖書100週間クラス・・・『シラ書 24章~51章』 そして 『人の子は安息日の主なのである。]

2021-07-16 14:00:00 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。
7月16日。金曜日。曇り。


 
    刈り込まれた公園の芝生の中に 『野の花』 一生懸命に咲く。

           名前がわからない。
    可憐な野の花に元気をもらって、今日もSTAY HOMEを頑張れます。


 今日も・・・
 週一の      『オンライン 聖書100週間クラス』
 

        今日は、夏休み前の、今期の最終クラスです。

  今期は、コロナ禍で密を避け、我が家を開放してのクラスは閉鎖となりました。
  それでも、参加者の皆様の、『聖書への情熱』が『新しい道』を切り開きました。
     窮すれば・・・道は開く! でした。
  想像もしなかった『オンラインクラス』の開始となりました。 

    あれこれと新しいことに挑戦で、とても充実した今期となりました。

  今回のクラスは、2018年11月16日に始まって以来・・・
  今日のクラスで、2年8ヶ月間、毎金曜日に集合で、『71回目クラス』となりました。
  旧約聖書の通読完読日まで、残すところ5回のみとなりました。 立派です。
  新約聖書の通読となる日も、間近となりました。 新たな楽しみです。

        何事も、成せばなる! ものだと実感します。

  2年8ヶ月間の『恵み』は、
  力も能力もない私たちが、 
  手軽に手に入れたというものではなく、
  3年近く ”忠実に聖書を読んで集まる ”という努力の積み重ねによって得られたと言えるでしょう。
       今日も、仲間に感謝! そして 神様に感謝!感謝!


     今日の『通読範囲』 は 『シラ書 24章~51章』

        『人間は、最初の者も知恵を完全には知らず、
        最後の者も知恵を突き止めることはできない。
      知恵の思いは海よりも広く、その計画は地下の海よりも深い。』

           シラ書 24章28-29節


シラ書の著者は、
イスラエルの伝統的な信仰にこそ、本当の知恵があると確信して、
同胞に、確固たる信仰に基づく人生を歩むように勧めるのです。
 
常に、天と地にあるものを通して示される神の偉大な『知恵』をわきまえなさい。
イスラエルの長い歴史に中で優れた先人たちの姿を思い出しなさい。
人間には悟りきれるものではない、海よりも広くそして深い『知恵』を思って、
どんなときも神をほめたたえ、感謝しなさい。 と勧めるのです。

 
      仲間は、『シラ書』 をどう読み解くのでしょう!? 
   今日も、楽しい『オンライン・聖書100週間』です。 感謝!感謝!


そして。

今日は7月16日。年間第十五金曜日。

『今日の入祭唱』

   『主は驚くべき御業を記念するよう定められた。
 主を畏れる人に糧を与え、 契約をとこしえに御心に留めてくださる。』

      詩編 111章4-5節


『今日の福音 イエスの御言葉』

    『そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。
     弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
 
                          写真はネットより拝借
ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、
「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」 と言った。

そこで、イエスは言われた。
「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
神の家に入り、ただ祭司のほかには、
自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。


     安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、
     と律法にあるのを読んだことがないのか。


     言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
     もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』
     という言葉の意味を知っていれば、
      あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。

        人の子は安息日の主なのである。」』
            マタイによる福音書 12章1-8節


   イエス様のおっしゃりたいことは・・・
   『あなたたちは罪もない人たちを、自分の判断でとがめるべきではない。』 
                 ということではないでしょうか?

   イエスご自身は、
   狭い考え方に閉じこもった人々から、罪人として、酷く批判され、裁かれることがありました。
   今回のイエスは、
   御自分を責め立てる人に、自分自身を弁護するのではなく、
   「弟子たちは律法に背いていない。律法学者が加えた規則の解釈に背いただけです。罪はない。」 
              と、弟子たちを弁護なさいました。

   イエス様は、
   「憐れみを知っている人は、決して罪のない人をとがめはしないでしょう。」
                  と言いたかったのでしょう。

       神様がお求めになるのは、『憐れみ』 なのです。
       神様がお求めになるのは、困っている人を助けることです。
        『愛徳』は、『律法・規則』に勝るのです。

    イエスは、安息日であっても困っている人を助ける、『愛徳』の人です。
         『人の子は安息日の主なのである。』と、
        安息日に、新しい意味を与えられたのです。

私たちも、
イエス様に倣って
困っている人を助けることが出来るなら、
イエス様の兄弟ですね。


『今日の拝領唱』

   『神の御業は偉大。
 わたしは、正しい人々の集い、心を尽くして主に感謝をささげます。』

      詩編 111章2&1節


皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
石の上にも三年。といわれます。地道な努力の勝利ということでしょうか。
何事も、仲間と共に楽しく、続くのですね。 お元気で!

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