マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

映画:『ベン・ハー』・・・『感性』の成長の恵み そして 『イエスの姿が彼らの目の前で変わった。』

2022-02-19 14:00:00 | 大学。大学院。本。コンサート。ラジオ。映画。
2月19日。土曜日。曇り時々雨。

穏やかな土曜日。
ゆっくりした土曜日。

1959年のアメリカの叙事詩的映画
『ベン・ハー』を観ました。
222分・3時間42分の一大スペクタクル映画です。
11部門のアカデミー賞の史上最多受賞作品です。


  イエス・キリストの誕生・・・  『占星術の学者たち』
  

     映画は、
     タイトルがでる前に・・・
     『イエス・キリストの聖誕』が描かれます。
     
     空一面の暗闇の中で、
     『栄光の星』が、『救い主の誕生』:『馬小屋』のもとへと動きます。

     『そのとき、
      占星術の学者たちが東の方から来て、言った。  
      「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
       わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」』
                マタイによる福音書 2章1&2節


     映画の始まりは、『イエスの誕生』に始まり・・・
     映画の終わりは、『イエスの処刑・十字架』と『イエス復活』で終わりました。


   帝政ローマの時代。
   国を失ったユダヤ民族に生まれた、裕福なユダヤ貴族の青年:ベン・ハー。
   イエスの誕生と同じ頃に生まれたベン・ハーが、
   イエスの『霊の道』とは正反対の『この世の道』を歩くその人生の遍歴において、
         苛酷な運命に巻き込まれ、
    ある時は復讐に燃え、ある時は絶望に陥りながらも、
  
      『戦車競争』    旧友であり仇敵 のメッサラ と戦うベン・ハー(右) 

       神・イエスがなす『業』により、
   ベン・ハーの人生が『再生・復活』する迄の『軌跡・奇跡』が描かれます。

      その姿を顕わされた救世主:イエス・キリスト  ベン・ハー 
           が絡められて描かれます。

    
素晴らしい映画を観ながら・・・
考えさせられました。
私が初めて『ベン・ハー』を観たのは?
いつの頃だったろうか?
若い頃の私には、
映画『ベン・ハー』を理解する『感性』
まるでなかった。欠けていました。
・・・と考えさせられました。

    初めて『ベン・ハー』を観た若い私は、
    この映画の深い意味を、全く理解していなかったのです。
    今日、同じ映画を観ながら、
    イエスとベン・ハーの『人物』を理解でき、映画の意味も理解でき、
       そのことに、感動しました。

      私は、一回目の『ベン・ハー』を観て以来、
      何十年もかけて、
       私の『感性』は育てられていたのです。
        この気づきに、涙が出て来ました。


       平凡な私の人生も捨てたものではない
         と感動しました。
     沢山の人と出会って、沢山の本を読んで、沢山の映画を観て、
       それらの中で『素晴らしい人たち』に出会った
           長い『年月』は、
       確実に、私の『感性』を育てていたのです。
       人としての深みが育てられていたのです。


    私は、今日は、長い年月の『恵み』に感謝した次第でした。
           感謝!感謝!


そして。

今日は2月19日。年間第六土曜日。

『今日の入祭唱』
 
  『「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽して神を愛し、
    また隣人を自分のように愛する」ということは、
    どんな捧げ物やいけにえよりもすぐれている。』
      マルコによる福音書 12章33節


『今日の福音 イエスの御言葉』

  『そのとき、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、
        高い山に登られた。

      イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
    
         服は真っ白に輝き、
   この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

       エリヤがモーセと共に現れて、
      
        イエスと語り合っていた。

      ペトロが口をはさんでイエスに言った。
  「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
       仮小屋を三つ建てましょう。
 一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

    ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。
      弟子たちは非常に恐れていたのである。
    すると、
      雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。
      「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

    弟子たちは急いで辺りを見回したが、
    もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。


    一同が山を下りるとき、
    イエスは、
       「人の子が死者の中から復活するまでは、
       今見たことをだれにも話してはいけない」
                と弟子たちに命じられた。

    彼らはこの言葉を心に留めて、
    死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
    そして、
    イエスに、
    「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」
                    と尋ねた。
    イエスは言われた。
     「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。
      それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける
       と聖書に書いてあるのはなぜか。
      しかし、言っておく。
      エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、
      人々は好きなようにあしらったのである。」』
          マルコによる福音 9章2-13節


   今日のイエス様は、
   三人の弟子とともに、山に登るのです。
   『イエスの神秘』が三人の弟子に示されるのです。
   
   弟子たちは
    『イエスの変容』の姿を見て、非常に恐れると、
    ※神の、『彼に聞け』と声が聞こえるのです。
    ※イエスは、『見聞きしたことを内緒にするように』と命じるのです。


    イエスは、
    ご自分の『使命』は、エリヤやモーセと同じように、
    『苦しみの道』であることが分かっていました。
    ところが、
    弟子たちは、
    変容するイエスの姿を、又、エリヤやモーセと話されるイエスの姿を、
    ただ喜ぶだけで、その意味は全く理解ができていませんでした。

              そのとき、
              神の存在を現す『雲』の中から、神の声が聞こえたのです。
                    『これはわたしの愛する子。これに聞け。』
   

                  イエスの神秘を理解できないで弟子たちへの
                         『返事』が『神の言葉』でした。

              弟子たちは、
              山から降りて、日常に戻って、
             イエス様を理解できなくても、
     『イエスの言葉』を信じて、イエスに従っていかなければなりません。 
     後になって、
               『イエスの受難と復活』を目にして、
       初めて『イエスの神秘』が理解できていくのです。
       弟子としての深みが育てられていくのです。


              私たちも、
             理解できないことが沢山ありますが、
                 『成功には苦しみが伴う』ことを学びつつ・・・
                  『イエスの言葉』を聞きながら・・・
              理解できる『時』を辛抱強く待ちましょう。
         祈りましょう。


『今日のアレルヤ唱』

 アレルヤ、アレルヤ。
 『天が開いて父の声が響いた。「これは私の愛する子、彼に聞け。」』
     マルコによる福音書 9章7節  アレルヤ、アレルヤ。

皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
身近なことに感動しながら、素敵な週末をお過ごしください。 お元気で!

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