今日は金曜日。
いつものように、
朝5時の聖書勉強会予習 ~ 夕方5時まで。12時間。 ぶっとうしの聖書漬けの一日でした。
午前中。 『ミサ と 聖書講義』
教室への高速道路。
音楽を聴きながら
、100km位で吹っ飛ばして30分強


聖書(神)の世界へのスイッチ切り替えに役立つ 大切なドライブ時間です。
すべてを後ろに置いて、聖書と私だけの世界に入っていく。
お顔を存じ上げるだけのお仲間、講師だけが知り合いの教室なので、皆様とは気持ちよく御挨拶だけ。
この仲間との距離感も、私には助かる。魅力です。 講義後は、一気に帰宅の途に着く



午後。 『聖書通読会・聖書100週間』
こちらは、長年の仲間とのクラスは、和気藹々と、深い人格的交わりがあります。
勉強後は、簡単に、『お茶タイム』 です。
今日の『おやつ』 は 仲間の牧師の奥様の 『おもたせ』 です。
『牧師様のふかしたてさつま芋』

手作り芋。採りたて。ふかしたて。 おいしく感謝のお味です
素朴な『芋』が、『真理』が書かれた『聖書』 と 似合います。
偶然にも。
午前中の『講義テーマ』 と 午後の聖書分かち合いの『一部』。 同じ内容の聖書の箇所でした。
『洗礼者ヨハネ と イエス』の箇所です。
午前中の聖書講義での 『御言葉』。
『ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを、自分の弟子から聞いた。
そこで、自分の弟子たちを送って、(キリストに)尋ねさせた。
「来るべき方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」』
マタイ福音書 11章1~3節
洗礼者ヨハネの最期。
皆に、悔い改めを説き、『悔い改めの水の洗礼』を授けながら、キリストへ至る道を整え準備をしていました。
そんな時、
自分の義理の甥のイエスにも、来るべき救い主とは知らずに、『悔い改めの水の洗礼』を授けました。
勿論。
自らも、救い主・キリストの来るのを待っていました。
そんなある日。
領主ヘロデに、領主の兄弟の妻・ヘロディアのことで箴言したゆえに、捕らえて縛り牢に入れられてしまいます。
その牢の中から、
自分の弟子たちを送って、(キリストに)尋ねさせます。
「来るべき方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 と。
その後、
領主ヘロデに、その妻・ヘロディアとその娘の希望とおり、牢から再び出ることなく、首をはねられます。
そして。
午後の聖書通読会での 『御言葉』。
『ヨハネは、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、
罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしはあなたがたに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。
その方は、聖霊と火であなた方に洗礼をお授けになる。」』
ルカ福音書 3章3&16節
キリストの洗礼。
キリストは、
自らも…ヨハネから 『悔い改めの水の洗礼』 を受けます。
その後。
公生活を始めます。
神の福音=『開放と回復と自由』=を宣べ伝えながら・・・
キリスト自身は…『水と霊の洗礼』 による 『罪の赦し』 を宣べました。
ここで。
疑問が浮かびますよね。
両者・ヨハネとキリストの言葉には、違いがありますよね。
キリストの洗礼を、ヨハネは 『聖霊と火の洗礼』 と預言しましたが、
実際のキリストの洗礼は 『水と霊の洗礼』 でした。
両者の違いは、なぜあるのでしょうか??
以下。
聖書講義の講師の話です。
ヨハネは、
罪の許しの 『悔い改めの水の洗礼』 を宣べ伝えながら・・・
来るべき方・キリストが 『聖霊と火の洗礼』 を授けると言いました。
ヨハネは更に預言しました。
『そして、(その方は)
手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、
麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』
ルカ福音書3章17節
悔い改めて、殻ではなく麦となり、キリストに焼き払われることのないようにしなさい。
と。皆に話しました。
しかし。
実際には、
来るべき救い主・イエス・キリストは、
ヨハネの預言のような 『厳しい裁きのキリスト』 の姿はなく、人の罪を弾劾することも全くなく、
その反対に、
すべての人に優しく接し、病人を治し、捕らわれ人を解放しました。
『慈悲のキリスト』の到来でした。
では??
ヨハネの言う、『焼き払われるべき 人の罪』 はどうなったの???
『聖霊と火の洗礼』 はどうなるの???
疑問が残りますよね。
答です。
キリストは、その生涯において、『神の愛』の実践で、人々を愛しました。
『聖霊と火の洗礼』ではなく、『水と霊の洗礼』 による 『罪の赦し』 を宣べました
そして、
生涯の最後に、『焼き払われるべき人の罪』のすべてを、
その身を『贖罪』 として、 『十字架上での死』で引き受けて下さったのです。
民に下るべき『火の洗礼』は、『キリストの十字架上の血』によって成就したのです。
つまり。こういうことです。
人格を持つ神がおられ、私たち一人一人を愛しています。
最高の人類への神の愛は、
御自分の御子・キリストを、私たちのために送って下さることで、示されました。
神は、
自分の独り子・イエスキリストに、人類の罪の許しのための十字架上での処刑を受けることを、託したのです。
以上。講師の話の一部でした。
なるほどね~!
今日はこれで。 ありがとうございました
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
1週間、お仕事に勉強にとお疲れ様でした。 週末は自由な時間で、良いことがありますように!
足跡4777歩 お休みなさいませ。
いつものように、
朝5時の聖書勉強会予習 ~ 夕方5時まで。12時間。 ぶっとうしの聖書漬けの一日でした。
午前中。 『ミサ と 聖書講義』
教室への高速道路。






聖書(神)の世界へのスイッチ切り替えに役立つ 大切なドライブ時間です。
すべてを後ろに置いて、聖書と私だけの世界に入っていく。
お顔を存じ上げるだけのお仲間、講師だけが知り合いの教室なので、皆様とは気持ちよく御挨拶だけ。
この仲間との距離感も、私には助かる。魅力です。 講義後は、一気に帰宅の途に着く




午後。 『聖書通読会・聖書100週間』
こちらは、長年の仲間とのクラスは、和気藹々と、深い人格的交わりがあります。
勉強後は、簡単に、『お茶タイム』 です。
今日の『おやつ』 は 仲間の牧師の奥様の 『おもたせ』 です。
『牧師様のふかしたてさつま芋』

手作り芋。採りたて。ふかしたて。 おいしく感謝のお味です

素朴な『芋』が、『真理』が書かれた『聖書』 と 似合います。
偶然にも。
午前中の『講義テーマ』 と 午後の聖書分かち合いの『一部』。 同じ内容の聖書の箇所でした。
『洗礼者ヨハネ と イエス』の箇所です。
午前中の聖書講義での 『御言葉』。
『ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを、自分の弟子から聞いた。
そこで、自分の弟子たちを送って、(キリストに)尋ねさせた。
「来るべき方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」』
マタイ福音書 11章1~3節
洗礼者ヨハネの最期。
皆に、悔い改めを説き、『悔い改めの水の洗礼』を授けながら、キリストへ至る道を整え準備をしていました。
そんな時、
自分の義理の甥のイエスにも、来るべき救い主とは知らずに、『悔い改めの水の洗礼』を授けました。
勿論。
自らも、救い主・キリストの来るのを待っていました。
そんなある日。
領主ヘロデに、領主の兄弟の妻・ヘロディアのことで箴言したゆえに、捕らえて縛り牢に入れられてしまいます。
その牢の中から、
自分の弟子たちを送って、(キリストに)尋ねさせます。
「来るべき方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 と。
その後、
領主ヘロデに、その妻・ヘロディアとその娘の希望とおり、牢から再び出ることなく、首をはねられます。
そして。
午後の聖書通読会での 『御言葉』。
『ヨハネは、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、
罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしはあなたがたに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。
その方は、聖霊と火であなた方に洗礼をお授けになる。」』
ルカ福音書 3章3&16節
キリストの洗礼。
キリストは、
自らも…ヨハネから 『悔い改めの水の洗礼』 を受けます。
その後。
公生活を始めます。
神の福音=『開放と回復と自由』=を宣べ伝えながら・・・
キリスト自身は…『水と霊の洗礼』 による 『罪の赦し』 を宣べました。
ここで。
疑問が浮かびますよね。
両者・ヨハネとキリストの言葉には、違いがありますよね。
キリストの洗礼を、ヨハネは 『聖霊と火の洗礼』 と預言しましたが、
実際のキリストの洗礼は 『水と霊の洗礼』 でした。
両者の違いは、なぜあるのでしょうか??
以下。
聖書講義の講師の話です。
ヨハネは、
罪の許しの 『悔い改めの水の洗礼』 を宣べ伝えながら・・・
来るべき方・キリストが 『聖霊と火の洗礼』 を授けると言いました。
ヨハネは更に預言しました。
『そして、(その方は)
手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、
麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』
ルカ福音書3章17節
悔い改めて、殻ではなく麦となり、キリストに焼き払われることのないようにしなさい。
と。皆に話しました。
しかし。
実際には、
来るべき救い主・イエス・キリストは、
ヨハネの預言のような 『厳しい裁きのキリスト』 の姿はなく、人の罪を弾劾することも全くなく、
その反対に、
すべての人に優しく接し、病人を治し、捕らわれ人を解放しました。
『慈悲のキリスト』の到来でした。
では??
ヨハネの言う、『焼き払われるべき 人の罪』 はどうなったの???
『聖霊と火の洗礼』 はどうなるの???
疑問が残りますよね。
答です。
キリストは、その生涯において、『神の愛』の実践で、人々を愛しました。
『聖霊と火の洗礼』ではなく、『水と霊の洗礼』 による 『罪の赦し』 を宣べました
そして、
生涯の最後に、『焼き払われるべき人の罪』のすべてを、
その身を『贖罪』 として、 『十字架上での死』で引き受けて下さったのです。
民に下るべき『火の洗礼』は、『キリストの十字架上の血』によって成就したのです。
つまり。こういうことです。
人格を持つ神がおられ、私たち一人一人を愛しています。
最高の人類への神の愛は、
御自分の御子・キリストを、私たちのために送って下さることで、示されました。
神は、
自分の独り子・イエスキリストに、人類の罪の許しのための十字架上での処刑を受けることを、託したのです。
以上。講師の話の一部でした。
なるほどね~!
今日はこれで。 ありがとうございました

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
1週間、お仕事に勉強にとお疲れ様でした。 週末は自由な時間で、良いことがありますように!
足跡4777歩 お休みなさいませ。