今日は5月2日。金曜日。
金曜日は聖書三昧の一日です。
朝はミサと『今日の御言葉』。 午前中の『聖書深読会』。 そして 午後は『聖書通読会:聖書100週間』。 三連ちゃん。
ところが・・・
5月~7月の3ヶ月間の金曜日。 朝のミサと午前中の聖書深読会はお休み。
国外から日本へ派遣された司祭が何年かぶりの休暇で、帰国中で、休みです。
で・・・
今日は、朝の『今日の御言葉』 そして 午後の『聖書通読会:聖書100週間』のみ。 二連ちゃんです。
朝の『今日の御言葉』。
『アンデレが、イエスに言った。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう。」
男たちは、そこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。
また、魚も同じように分け与えられた。人々が満足した。』
ヨハネ福音書 6章8~12節
不思議な話ですよね。
たったパン五つと魚二つで、五千人の人たちのペコペコのお腹を満たしたなんてね!
そこで・・・
イエスが十字架の上で死を迎える日の前日の 『最後の晩餐』 を思い出しました。
あの『最後の晩餐』の時も・・・
イエスは、パンを取り、感謝の祈りをして、『これは私の体である。』と、
『パン』の形で、『御自身』 を弟子たちに渡しましたよね!
今朝も、キリストは、有り余るほどの恵みを、5千人(全世界の人達)にお与えになる。 ということでしょう!
私たち一人の力では出来ないことですが・・・
私たちが受けた恵み(パン五つと魚二つ)を、人に分かち合うなら、その恵みは増えて増えて…皆に足るものになる。 ということ。
奪い合えば足りず、分かち合えば余る。
・・・ということではないでしょうか?
パンと言えば・・・
山崎パンの創業者は、クリスチャンで有名ですよね。
パンを売り歩きながら、『神は愛である』との旗を もって歩いていたとか。 なんとか。 素敵な話ですよね
そして・・・
午後は、『聖書通読会:聖書100週間』 でした。
私の心に残った『御言葉』。
『ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。』
コリントの手紙Ⅱ 4章7節
私達は、
先々週一週間、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを覚えつつ、『受難週』を歩みました。
そして・・
主イエスのご受難、苦しみと死を覚えつつ歩んだ『受難週』を終えて、主イエスの復活を祝う日:『復活祭』を迎えました。
・・・十字架上の死。と 復活。 二つは切り離すことはできません。 『永遠の命』につながる二つです。
イエスのすばらしさとは逆に・・
私達は、
肉体と心と魂の全体が、壊れやすくみすぼらしく そして 罪と汚れに満ちた 『土の器』 です。
しかし・・
パウロは、『その『土の器』 に 『宝』 が納められている。』 と言うのです。
みすぼらしい壊れていく器。 そんな器には相応しくない 『すばらしい宝』 が、私たちには与えられている。 と言っているのです。
では・・・
その『宝』 とは何なのでしょうか。
『並外れて偉大な力は神のものであって、私たちから出たものでない。』コリントの手紙Ⅱ 4章7節
『宝』とは『並外れて偉大な力』。 『イエスの命』 です。。 『主イエスの復活の命』です。
『主イエスの復活の命』=『永遠の命』が、この私たちの『土の器』に注がれ、現わされていく。 とパウロは述べます。
みすぼらしい『土の器』を、中に納められた『宝』で、『輝く器』 に変身させましょう!
・・・そうすれば、私の中の『永遠の命』を、お人に分かち合えるかもしれませんね!
今日はここまでです。 私のお粗末な御言葉の感想でございました
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。 今年ならではのGWをお過ごし下さい!
金曜日は聖書三昧の一日です。
朝はミサと『今日の御言葉』。 午前中の『聖書深読会』。 そして 午後は『聖書通読会:聖書100週間』。 三連ちゃん。
ところが・・・
5月~7月の3ヶ月間の金曜日。 朝のミサと午前中の聖書深読会はお休み。
国外から日本へ派遣された司祭が何年かぶりの休暇で、帰国中で、休みです。
で・・・
今日は、朝の『今日の御言葉』 そして 午後の『聖書通読会:聖書100週間』のみ。 二連ちゃんです。
朝の『今日の御言葉』。
『アンデレが、イエスに言った。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう。」
男たちは、そこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。
また、魚も同じように分け与えられた。人々が満足した。』
ヨハネ福音書 6章8~12節
不思議な話ですよね。
たったパン五つと魚二つで、五千人の人たちのペコペコのお腹を満たしたなんてね!
そこで・・・
イエスが十字架の上で死を迎える日の前日の 『最後の晩餐』 を思い出しました。
あの『最後の晩餐』の時も・・・
イエスは、パンを取り、感謝の祈りをして、『これは私の体である。』と、
『パン』の形で、『御自身』 を弟子たちに渡しましたよね!
今朝も、キリストは、有り余るほどの恵みを、5千人(全世界の人達)にお与えになる。 ということでしょう!

私たち一人の力では出来ないことですが・・・
私たちが受けた恵み(パン五つと魚二つ)を、人に分かち合うなら、その恵みは増えて増えて…皆に足るものになる。 ということ。
奪い合えば足りず、分かち合えば余る。
・・・ということではないでしょうか?
パンと言えば・・・
山崎パンの創業者は、クリスチャンで有名ですよね。
パンを売り歩きながら、『神は愛である』との旗を もって歩いていたとか。 なんとか。 素敵な話ですよね

そして・・・
午後は、『聖書通読会:聖書100週間』 でした。
私の心に残った『御言葉』。
『ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。』
コリントの手紙Ⅱ 4章7節
私達は、
先々週一週間、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを覚えつつ、『受難週』を歩みました。
そして・・
主イエスのご受難、苦しみと死を覚えつつ歩んだ『受難週』を終えて、主イエスの復活を祝う日:『復活祭』を迎えました。
・・・十字架上の死。と 復活。 二つは切り離すことはできません。 『永遠の命』につながる二つです。
イエスのすばらしさとは逆に・・
私達は、
肉体と心と魂の全体が、壊れやすくみすぼらしく そして 罪と汚れに満ちた 『土の器』 です。
しかし・・
パウロは、『その『土の器』 に 『宝』 が納められている。』 と言うのです。
みすぼらしい壊れていく器。 そんな器には相応しくない 『すばらしい宝』 が、私たちには与えられている。 と言っているのです。
では・・・
その『宝』 とは何なのでしょうか。
『並外れて偉大な力は神のものであって、私たちから出たものでない。』コリントの手紙Ⅱ 4章7節
『宝』とは『並外れて偉大な力』。 『イエスの命』 です。。 『主イエスの復活の命』です。
『主イエスの復活の命』=『永遠の命』が、この私たちの『土の器』に注がれ、現わされていく。 とパウロは述べます。
みすぼらしい『土の器』を、中に納められた『宝』で、『輝く器』 に変身させましょう!

・・・そうすれば、私の中の『永遠の命』を、お人に分かち合えるかもしれませんね!
今日はここまでです。 私のお粗末な御言葉の感想でございました

皆様!
御訪問に感謝申し上げます。 今年ならではのGWをお過ごし下さい!