今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

208 草津(滋賀県)・・・追分は天井川に遮られ

2009-04-24 16:07:57 | 滋賀・京都

私の生活圏からいえば、「草津」で思い浮かぶのは上州・草津の湯であり、どうやら全国的にもこちらの方が知名度は高いらしい。しかしここは近江の草津宿である。京から東国に下る江戸期の旅人にとっては、東海道から中山道が分岐する追分として重要な宿場であったろう。交通の要所らしく、ここの地名は「草=陸」の「津=港」から来ているのだという。しかし私が驚かされたのは、その街道を塞いで横たわる天井川の存在であった。

天井川(旧草津川)の土手の下に追分の道標が建ち、「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」と教えている。東海道は川に沿ってしばらく南下するのだが、現在の中山道は川底のトンネルを通って東へと通じている。駅前商店街と旧宿場商店街が、まるで高架鉄道が何路線も敷設されているような形で、頭の上を流れる川によって分断されている珍しい構造の街だ。眼前を塞がれ、頭を押え付けられているようで、鬱陶しいことこのうえない。

川は7年前に付け替えられ、いま流れは無い。従って川ごと堤を撤去してしまえば、この鬱陶しさから解放され、交通も楽になるのだろうけれど、そのことを巡っては意見が分かれているらしい。確かに土手を登ると、広々とした屋上に出たような気分になって爽快である。堤は見事な桜並木だ。市民にとってはこの天井川のありようが、むしろ街そのものなのかもしれない。さてどんな新市街を創って行くか、草津市民の知恵の見せ所である。

宿跡は本陣を中心に往時の面影をとどめているようだが、商店街として眺めるといささか侘しい。宿場街というものは、旅人に対するサービス業の街だ。例えば城下町に比べ、文化の沈潜度では明らかに劣る。しかしそのことが、かえって自由でのびのびとした町民エネルギーを感じさせるという一面もある。

草津市や隣りの守山市など、湖東一帯は全国的にみて人口が目立って増えている地域だという。快速電車の運行で、大阪のベッドタウンとして機能しているのだ。自由な町民文化の歴史が、現代のサラリーマンにとっても暮らしやすい「何か」があるのかもしれない。

それにしても江戸時代200年は、今に至る日本人にEdo DNAをしっかり植え付けたものだと感心する。城下町では城や武家屋敷を、宿場町では本陣などを保存する街づくりがいたるところで行われているのは、そうしたDNAに突き動かされてに違いない。瓦・白壁・木材を基本とするこの時代の建造物は、それだけで現代人を惹き付け、癒しているようだ。何故なのだろう?

昭和レトロ街とか明治レンガ村などといった町おこしもあるけれど、江戸期の街並が残されていたらきっとその復元と売り込みが優先されているだろう。それほど日本人はあの時代が好きなのだ。息苦しい封建制度での生活であったとしても、民衆は逞しく生を楽しんでいたのではないか。そのことを染色体が教えてくれるから、その記憶につながるものに触れると癒されるのだろう、などと勝手な解釈を楽しんだ。

再び上州・草津のことだが、群馬の草津温泉に向かう街道の入口に渋川という街がある。私の長男と長女はこの街で生まれたのだが、近江・草津の駅に降りみると、その駅前あたりの地名が「渋川」だというではないか。偶然は奇妙な重なりを生む。(2009.2.20)
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