今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

943 信楽(滋賀県)高原の陶芸の森夢心地

2021-04-15 08:59:08 | 滋賀・京都
居並ぶタヌキとは、信楽の「陶芸の森」で出会った。窯場のコンクリート壁を背に5躰、並んでいる。いずれも不敵な面構えで、人間世界を凝視している。園内にたくさん展示されている焼き物で、私が一番気に入った作品だ。しかし信楽はもう、タヌキはやめた方がいい。陶芸店の店頭に、看板代わりにうず高く積み上げられているあのタヌキのことだ。鋳型で大量生産され、信楽の代名詞になっている。それが信楽焼の可能性を狭めてしまっている。



貴生川駅から出発する信楽高原鉄道は、ひたすら坂を登って行く。傾斜がもう少しきつければケーブルカーだろう。そして紫香楽宮跡駅に着いて、ようやく平坦になる。高原の上の盆地に着いたのだ。大昔は大きな湖の底だった土地で、湖は大地の隆起によって次第に北へ追いやられ、今は琵琶湖として落ち着いている。信楽の土はその古湖の底に堆積していたもので、埋蔵量はずいぶん豊富らしい。だから窯が築かれ、焼き物の大産地になったのだ。



全国の陶磁器産地は、焼き物の需要減退で生産量の減少に追い込まれ、いずれも苦しい。そのうえ陶土の枯渇が迫り、危機感を強める産地もある。信楽も生産額は1990年台前半のピーク時の20%程度にまで落ち込み、関連従事者数も1970年代半ばから7割減った。ただ信楽では資源枯渇は聞かれない。信楽の土は粘りがあって加工しやすく、熱に強いという優れものである。陶芸教室などで使われている一般的な陶土は、信楽産が多いようだ。



日本六古窯のひとつに挙げられる古い産地だが、大規模窯業は江戸時代の初めころからのようだ。周辺でお茶栽培が本格化したのだろう、盛んに茶壺が生産されていった。そして土が合っていたため明治期には火鉢の大産地になり、全国の需要の80%を賄った。有田や九谷などとは違い、土物の生活雑器を得意とする産地なのである。そのせいだろうか、これだけの伝統産地でありながら、未だ人間国宝といった作家を輩出していないのは残念だ。



タヌキは、古くから作られていた置物らしいが、戦後、昭和天皇が信楽を訪問し、「幼いころ集めた信楽焼のタヌキが懐かしい」と詠ったものだから人気が出て、表看板に躍り出た。火鉢の需要減退もあって産地を潤したことだろう。しかし代名詞にまでなると「活花やお茶の師範が、信楽は使いにくいとこぼす」ということになる。花器や抹茶の道具に、タヌキのイメージが邪魔になる、というのだ。そろそろ「タヌキの信楽焼」を脱し、次を目指す時期だ。







「陶芸の森」は、滋賀県が陶芸産地としての信楽を、文化情報発信地へ飛躍させようと造った。丘陵の中に展示館や研修館、登り窯などが点在し、家族連れはハイキングを楽しみ、陶芸好きは眼福に浸る。国内外の陶芸家が招待され、長期滞在して作品を制作している。丘陵の頂で、伸びやかに体を広げる女性像はアルゼンチン、「ヨセミテへの敬意」と題した巨体は米国の作家だ。これら刺激的な造形は、若い陶芸家の創作意欲を高めていることだろう。



早朝、窯元が並ぶ坂道をゆっくり歩いてみる。産業用ではなく陶器専門の窯元の街で、いずれも大きな屋敷と作業場を備えていて、窯業が退潮しているといった実感は湧かない。ここには例のタヌキはいない。所属する職人が、個性的な作品作りに励んでいるのだろう。陶磁器には産業としての窯業と、創作性が強い陶芸という流れがあるが、双方とも活況が望ましい。土を焼いて色と形を定着させることは、人類の根源的な創作活動だ。(2021.4.4-5)



































コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 942 甲賀(滋賀県)今もなお... | トップ | 944 紫香楽(滋賀県)廃都に... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

滋賀・京都」カテゴリの最新記事