《遊水池》と呼ぶのか、あるいは《遊水地》が正しいのか、広大なヨシ原が広がっている。わずかな面積でも私有権を争い、隅々まで耕作に使い尽くして来た日本民族の土地に対する観念が、ここを眺めていると狂い出す。平坦部でこれだけの未利用地が放置されているのは、北海道の原野を除けば他にないのではないか。だが狂っているのは当然なのだ。日本の未熟な近代化政策が、鉱毒によってこの不毛の地を生んでしまったのだから。
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昔、横瀬夜雨(やう)という詩人がいた。明治11年(1878年)、旧常陸国の真壁郡横根村(現下妻市)に生まれ、昭和9年(1934年)に57歳の生涯を閉じるまで、自ら「筑波は近く富士は遠く、筑波の煙は紫に、富士の雪は白い」と詠って故郷を離れず、創作に取り組んだーー。これは「下妻市ふるさと博物館」で初めて接した知識である。下妻の街さえ知らなかった私に、作品どころかその名に触れた記憶もない詩人であった。 . . . 本文を読む
いまだに解せないことがある。《神》のことだ。人間は、なぜ神という観念を必要とし、その不条理を正当化させることに四苦八苦し続けるのだろうか。言語や習俗はバラバラなのに、あらゆる民族がそれぞれの《絶対的存在》を持つ(持とうとする)のはなぜか。神などいなくてもいっこうに構わないと私などは思うのだが、そのくせ神社に立てば賽銭を放り、手を打って願いごとをしていたりする。このDNAは何処より来るのだろう。
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益子から笠間へ、丘陵を縫うようにアップダウンする地方道を行くと、東日本を代表する二つの陶器産地の隔たりは車で40分程度でしかなかった。江戸中期、信楽の技術を移入して始まった笠間焼と、その笠間から江戸末期になって技術移転された益子の焼き物は、程よいライバル関係を保ちながら販路を広げて行ったのだろうか。瀬戸の規模には及ばないにしても、関東一円の生活雑器を請け負う地場産業に育ち、作品も生まれた。
笠 . . . 本文を読む
紬の街から陶芸の里へ、旅は《手仕事》を堪能しながら続く。結城から国道50号を東に行くと、間もなく常総バイパスとクロスする大きな交差点に出た。そこから北に向かえば今夜の宿泊地・益子だ。途中、左手に望んだ街並みは真岡だったのだろう、常陸国の西端にいたわれわれは、再び下野国に入っている。結城から益子へ、存外に距離があって、さしもの関東平野も尽きたのか、しだいに丘陵へと誘い込まれ、日はいささか傾いた。
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《結城》といえば《紬》である。条件反射のようにその特産品が口をついて出る。では結城はどこにあってどんな街なのか。そうしたことに全く無知であることに気づいたことが、われわれの今回の旅のきっかけであった。われわれ、というからにはいつもの一人旅ではない。パートナーが一緒で、運転までしてくれるというではないか。かくして北関東の、県境がいくつも入り組んでいるあたりへ出かけることになった。まずは結城である。 . . . 本文を読む